素直に成長させる作文講座
ストリートアカデミーの下記講座から申し込み下さい。
「非行」の意味とは
私は「素直」という言葉を、「非行」という言葉の対極にあるものとして使っています。非行に走らせないということは、子どもに素直さがあるということです。
厳密に言えば、非行とは何であるのかは法律によって定義されています。刑罰法令に触れる行為をした未成年、あるいは、将来に刑罰法令に触れる行為をするおそれのある未成年のことを非行少年と言います。法律的な意味で言えば、「非行」と「素直」には何の関係もありません。
けれど、ここのホームページでいう非行とは、もっと広い範囲のことを指しています。というのも、一般的に使われる非行という言葉は、上に書いた非行の定義では当てはまらないことも多いからです。子どもに対して親は「将来、この子は非行に走るのではないか」と不安になりますが、このような場合の「非行」とは法律的な意味での非行ばかりではありません。
たとえば、親や友人に対して暴言を吐いたり嘘を頻繁につくことは、法律的には非行では無いけれど、一般的には非行として考えられるのではないでしょうか。もちろん現実は多種多様。現実は常に例外を含むもの。状況次第では犯罪行為になり得る暴言や嘘もあるかもしれません。が、暴言や嘘はダイレクトに犯罪となるものではありません。
それから暴力ではあるけれど、それほど大事にならない暴力も考えられます。兄弟姉妹に対する軽い暴力や、大人を困らせる程度の暴力。軽く叩くとか蹴ると言ったもの。これらも直で犯罪とは結びつきません。けれど、頻繁にされると親としては不安になるでしょう。将来を不安にさせる要因になります。
暴言や嘘、軽い暴力など、法律的には非行と呼べないものも、ここでは非行と呼ぶことにします。法律的な非行だけを扱ったのでは、このホームページを訪れてくれた方々の期待に答えられないと考えられるからです。
どうして「非行から素直へ」なのか
私は「非行から素直へ」というキャッチコピーを掲げていますが、それは「素直」という言葉を「非行」とは真逆のものだと考えているからです。非行でない状態を素直と呼びます。素直の要素を多くすれば、子どもは非行に走りません。
ここでいう素直とは、自分の心に素直という意味。自分の気持ちを知っている。自分の気持ちに鈍感でない。自分が興味を持っているものを知っている。という意味になります。
素直の要素を多くすれば子どもが非行に走らないというのは、素直さが人性を切り開く上で非常に有利だからです。それはエネルギーを注ぎ込める場所を知っている、ということにもなります。
人生はどう転がるかわかりません。子どもの頃に素直に育ったとしても、大人になってからの出来事で犯罪者になってしまうことはあり得ます。どんなに犯罪を忌むべきものだとわかっていたとしても、一時の感情で犯罪を犯してしまうことだってあります。さらには論理的に考えていった結果、法律違反を犯さなければ自分の倫理的な信念を達成できないと考えるに至ることだってるでしょう。どこに人生の落とし穴があるかはわかるものではありません。
そんなときに、落とし穴からはい出すエネルギーになるもの。落ちた穴の壁を登るエネルギー源。それこそが自分の素直な気持ちなのです。
世の中には自分の素直な気持ちに無頓着な人が多いようです。身近な所で言えば、自分探しをする若者たちでしょう。自分が何をしたいのかわからず、自分のこれまでの人生には無い遠くに自分の好きなものがあるだろうと考えて海外に向かう若者たちです。
自分の気持ちを相手に合わせて歪めてしまっている人もいます。自分の気持ちよりも相手のこと、周囲のことを優先して考えます。一見、自分を犠牲にして他人を優先する考えは好感が持てるように思えますが、自分の素直な気持ちを理解していないのであれば、それは自分を不幸にするだけです。自分を優先することと他人や周囲を優先することは相反する場合が多いので、自分を優先的に考える勇気を持つことが必要です。相手との対立を回避したいがために、自分の気持ちを深堀りする機会を損じているのです。
さらには、何事も一辺倒に考える人もいます。これも自分の素直な気持ちと向き合っていない人の特徴です。自己主張はするのだけれど、その自己主張に深さが足りません。自分の素直さを深堀りしておらず、世の中に蔓延する大多数の考えを自分の素直な気持ちだと考える人間。いわゆる「常識に縛られている人」です。表面的にしか自分の気持ちをなぞったことがない、あるいは自分を客観的に見つめることを怠ってきたため、自分の素直な気持ちを大多数としてしか見られないのです。
このように自分の素直な気持ちをおろそかにして、相手に合わせたり、社会に合わせたりしていると、自分が何に対して力を発揮できるのかがわからなくなります。力を発揮できるのは、自分が興味を持ったものだけです。興味のない分野でいくら力を発揮しようとしても、引っ張るエネルギーが働きません。
自分の素直な気持ちを理解できないのは、家を建てる際にどこに釘を打ったら良いのかわからない状態のようなもの。釘を効果的に打つにはポイントが決まっています。釘を何処に打てば効果的なのかわかっていない下手な大工に限って大量に釘を打ちたがります。効果を発揮できるポイントを知っていれば、必要最小限の力で強度のある家を建てることができます。
なぜ作文講座が子どもを素直に成長させるのか
そこで、子どもに素直さを発揮させるにはどうすればいいかですが、僕は文章を書くことをお勧めします。文章を書くことに慣れさせるのです。少なくとも苦手意識が無いようにしたい。そのためには、文章を書く練習をしなければなりません。
文章を書く。すなわち児童や学生で言えば、「作文表現」ということになります。
理由1 勉強ができるようになる
どうして作文表現が素直さを育むのか。まずは単純に、勉強ができるようになるからです。なんだかんだ言っても勉強から逃げるようなことはせず、嫌いだとは思いつつも、勉強を続けることが非行を防ぎます。学校の勉強など基礎学力を育むにあたって、苦手意識を感じないことは大切です。
人と比較することは無意味なことだし、くだらないと私は思っています。けれど人と比較をしないで生きていけるかというと、そんなこともできません。右を見ても左を見ても同じように自分と同じ種が生活しています。「自分はここがあの人よりも優れている」とか「私はあそこが周囲よりも劣っている」などと比較して考えても仕方のないことです。
学校での勉強を苦手にならないようにするには成績を上げることが重要です。成績は学校でもっとも比較しやすいものなので、学校の勉強ができるようになればそれだけ勉強に対する苦手意識を克服できるからです。学校での勉強にしろ、学校以外での勉強にしろ、知識をインプットしたり頭を回転させて数学的に考えたりする過程で、非行に走ることが目の前の快楽を差し引いても割に合わないことがわかってきます。
いくら目の前の他人が憎いからといって、感情のままに殴ったりして暴力を振るっていては将来、非行に走ることになるかも知れず、それでは人生を台無しにしてしまう恐れがあると理解するのです。人生を台無しにすることは、感情のままに相手を殴るという目の前の快楽を差し引いても割に合わないことがわかります。
理由2 自己表現ができるようになる
非行に走る子どもは、自分を表現できない子どもが多いです。何か言いたいことがあっても他人と面と向かって言うことができず、自分の内に本心を秘めてしまうのです。大人でも家庭や社会経験からわかると思いますが、言いたいことを言えずにいるというのは大変なストレスです。
言いたいことを言う。表現したいことを表現するのを手伝うのが作文表現です。自分を表現するには言いたいことがなければ表現すらできません。単に「嫌だ」だけでは自分の気持ちが相手に伝わりませんし、それでは感情で「嫌だ」と言っているだけかもしれません。論理的に考えれば別に嫌でもないのかもしれません。
作文表現で自分の気持ちを表現することで、自分の素直な気持ちを形作ることができます。何もないだだっ広いところに形を具現化するようなもの。「言いたいこと」や「言えること」が自分の中に出来上がる。自分を表現する際にコンテンツになります。
言いたいことの中身、つまりコンテンツは感じることから作られます。日常の中で感受性が刺激されて、自分の意見が出来上がる。感受性は誰もが持っているものですが、そこから具体的な意見を形作るには訓練が必要です。
もちろん、訓練など必要なく、いつの間にか言いたいことが出来上がっている人もいます。口が勝手に動くタイプの人です。
けれどそうでない人は、自分の意見を形作る訓練をしなければ、表現できるだけの自分の気持ちを見い出せません。
私は話し言葉と書き言葉は別だと考えています。この考え方は人によって違っていて、「話せれば書ける」と考えている人もいます。そんな人は「話す」と「書く」を一緒に考えていて、話せるだけのものがなければ書くこともできないと考えているタイプです。
けれど私は、「話す」と「書く」を別に考えます。話せなくても書くことはできるようになります。実際に私がそうなのですが、人前で話すことは苦手なのだけれど、人を前にしない書く行為では、比較的堂々と意見を述べることができるのです。
書き言葉は話し言葉と違って、発した瞬間すぐに無くなってしまうものではないことが大きい理由です。ディスプレイに表示させたり、紙面に書いたりして、読み直しができるのです。提出するまでにじっくり考えることができます。
作文表現とは、自己表現の一つ。自己表現にはいくつもの種類があります。歌、楽器、絵画、書道、野球、バスケ、テニス。どれも自己表現の手段です。その行為をすることで「自分はこれが好きだ」「自分はこういう人間だ」というのをアピールできる。その中でも作文表現は、最も簡単な自己表現手段なのです。
頭の中に思い浮かべた考え、体で感じた感情を直接に具現化するのが言葉になります。これほど簡単で、表現するのに有利な手段もないでしょう。
この簡単確実な自己表現手段というのは、生涯に渡って味方になってくれます。簡単確実な自己表現ということは、いわば自己表現の基本。基本ということは、応用が効きやすい、応用まで持っていきやすいのです。
たとえば文章を書けると、仕事をこなすのに有利です。自己表現の種類はたくさんあるとさっき書きましたが、生涯の伴侶となり得る自己表現は作文表現のみではないでしょうか。楽器も書道もバスケも、自己表現には違いありませんが、それらを生涯やるのかといと、やらないことの方が多いでしょう。
生涯に渡って付き合う可能性がもっとも高い自己表現手段が文章表現なのです。最も基礎的な表現手段なので、色々な場所で使うことができます。いろんな状況で使うことができます。他のものと組み合わせて使うことも可能。「バスケの魅力を文章で表現する」こともできるし、「楽器をやっている自分を文章でアピール」することもできます。白米のようなもので、どんなオカズにも合う上に、それ単体でも腹がふくれるという代物です。
理由3 親が子どもを知る機会になる
親として非行の何が怖いのかというと、得体の知れないのが怖い。子どもが何を考えているか、子どもがどんな感情を持っているか、わからなくなります。それゆえに「将来、非行に走るのではないか」と不安になる。宇宙人の番組を見て恐怖を感じるのと同じで、未知に不安を覚えるのです。
つまり、非行の不安を無くすには、子どもが何を考えているか、子どもがどんな感情を持っているかがわかるようにならなければなりません。作文は親にとって、子どもを理解する機会を提供してくれるものです。
文章つまり作文が書けるようになると、自己の内面を表現できるようになります。たとえば文章を描くときのテクニック(比喩など)は、文章に個性を出すためのテクニックと言えます。文章テクとは文章を面白くするためのものではあるのですが、面白い文章とは個性のある文章のことです。
文章が読まれるには面白くなければなりません。面白さの基本とは読み手が知らないことを提供することです。読み手が知らないことを提供するにはどうすればいいのか。それは個性を表現することです。人間は一人ひとり違うので、自分オリジナルの見方を文面に表すことができれば、それは読み手の視点とは別の、オリジナルである確立が高い。文章テクニックとは、個性を表現するものであって、「自分はこう考えている」「自分にはこう見えている」というのを表現するものなのです。
これは正に、親にとって子どもの非行の不安を取り除くものではないでしょうか。親は子どもがわからないから、子どもに非行の不安を抱きます。暴言、虚言、窃盗、勉強嫌いなど、倫理的道徳的に反する行為。これらの行為をするのに本当は筋道の通った理由があるのかも知れないけれど、大人にはそれがわからないから、その行為に不安を抱きます。子どもの内面を知る手段があれば、子どもの行為に色々と理由をつけて考えられるようになります。未知の領域が既知に変化する。繋がりのなかったものに、繋がりを想像できるようになります。
親は、子どもの行為に子どもの考えを見いだせないから非行の不安を抱く。子どもの考えを作文によって見ることができれば、不安を軽減させることができます。
作文講座の申込み
というわけで、「非行に走ることなく素直に子どもを成長させるには、作文表現を育んでは」というのが私の提案です。3つの大きな理由を挙げました。勉強に苦手意識を無くすことができる。自己表現ができるようになる。親として子どもの内面を知ることができる。以上の3つです。
「作文の『嫌だなあ』を『気持ちいい』に変える講座」を、ストリートアカデミーというスキルシェアサイトで開いています。ぜひ下記リンクからご参加ください。