虐待ってなんで無くならないんですか? 虐待するくらいなら産まなきゃいいのに
児童虐待防止法があって、この法律では児童虐待の種類を4つ定義しています。
- 児童の身体に外傷を生じ、又は生じる恐れのある暴行を加えること
- 児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をすること
- 児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること
- 児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと
つまり、身体的な虐待、性的な虐待、ネグレクト、精神的な虐待の4つです。
この法律は、2000年に施行されています。もともと日本には児童福祉法という子どもを守るための法律があったのですが、これだけでは不十分だったのです。虐待の定義が曖昧だったり(暴力の痕がないから虐待は認められないとか)、責任が曖昧だったり(虐待の疑いがあっても誰も関わろうとしない)。虐待が社会問題化していきました。
そこで、「今のままでは虐待から子どもを守ることはできない」という声が高まり、児童虐待防止法がつくられました。この法律では、子どもの前で夫婦喧嘩をするなど、間接的な暴力も児童虐待とされています。
今回は、子どもに対する直接的な暴力(狭い意味での虐待)がなぜ行われるのか。どうしてそれが無くならないのか。について話してみたいと思います。
なぜ親の子どもに対する暴力が無くならないのかと言うと、それは「自分の思い通りにならないから」に集約されます。子どもはワガママだし、社会性がまだ育っていないので、親が子どもを育て、社会の中に順応できるようにしつけなければならないのですが、その過程で「親の思い通りにならない」ということが発生すると、子どもに対する怒りがわいてくるんです。
「子どもを虐待するくらいなら産まなきゃいいのに」と思うのは真っ当な考えで、正にそのとおりではあるのですが、一部を除いて多くの家庭では、子どもは歓迎されて生まれてきます。歓迎の程度は家庭によって、両親によって違うでしょうが、少なくとも両親は、少なくとも母親は、自分の子どもを「大切に育てよう」と思って産みます。
動物的なもので、自分の子孫に対する愛情は持っているものなんです。動物的とか生物的にっていうと、なんだか親の愛情としては急に崇高さがなくなるような感じもしますが。
親の虐待も、元々は「大切に育てよう」というものから始まるんです。そんな親の「自分はこれが大切だと思う」「自分はこれが優先されるべきだと思う」が思い通りにならないから、親の正義が侵害されるから、そこに怒りが出てくるんです。
たとえば
「自分がなかなかご飯を食べてくれない」
↓
「自分はご飯を食べさせることが良いことだと思っている。子どもがご飯を食べることで子どもは成長する。すぐにご飯を食べてくれれば、買い物にも行けるし、時間を有効に使える。早くご飯を食べてくれない子どもの行為が不正であって、これを正すことが善だ」
という考えになるので、子どもを正すために暴力を使うことが親の中では正当化されていくんです。おそらく初めは口で言っているのでしょう。ですがなかなか子どもはわかってくれないし、言うことを聞いてくれない。なので、暴力を使うんです。
「ここまで言っても言うことを聞いてくれないのでは、強制的にさせるしかないのではないか。このままズルズルと時間を無駄に使っては、そっちの方こそが正しいことに反する」という考えになるので、暴力を使って子どもを強制的に自分の考えを押し付けるようになります。
親の子どもに対する暴力は、「自分の思い通りにならないから」であって、そこには「自分の考える正しいことが侵害されるから」なんです。
で、こんな風に虐待を暴力と考え、怒りの出どころを「自分の思い通りにならないから」と考えると、どうやったら虐待を抑えられるかも見えてくると思います。
どうやったら怒りを抑えることができるか、です。
柔軟に考えることです。何が正しくて、何が善くてダメで、なんていう基準を曖昧に持つことです。確かに、親としては計画的に子どもを育てたいものです。時間だってお金だって限りがあるもので無限ではないので、有効に使いたいです。「何時になったらどこに行きたい」「今日中にこれを片付けてしまいたい」「子どもが入学するまでにいくら貯めたい」「今日はこのくらいで我慢しないと」と、多かれ少なかれ、先を見て計画を持って親は生活していますが、その計画を邪魔する存在が、親にとっては子どもなわけです。
計画通りにいかない人生を受け入れるだけの余裕と度量、柔軟さ。それと自分の計画がすべてではない、他にもいい方法はいくらでもある、という見聞の広さが、怒りを防いでくれるはずです。
子育てというのは虐待と隣り合わせですし、親であれば誰でもそのことをわかっていると思います。「自分のやっていることが虐待になるんじゃないか」と思いながら、ギリギリの線で子育てをしています。
自分の状況を特殊なものだと思わないことです。「子どもが言うことを聞いてくれないのはどこの家でも同じ」「子どもに対してイライラしてしまうのはどこも同じ」と考えなければ、「この不正を、なんとしても正さなきゃ」と考えてしまいます。絶対的な柔軟性を持ってものごとを考えることができれば、世の中からイライラや怒りや虐待なんて無くなるのでしょうが、そんなことはできません。人間っていう有限の存在には柔軟に考えきることができません。
右と左に揺れるひものうえで、どちらにも偏らないようにうまくバランスを取ろうとしているようなものです。右に偏らないようにすれば左に振れるし、左から離れようとすると今度は右に振れます。その繰り返しの中で、後ろを振り返ってみると、「なんとかやってこれている」ものなのでしょう。柔軟に考えることです。
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