少年マンガの王道「維摩経」

維摩経というのがある。
これは大乗仏教の経典の1つで、作られたのは紀元前1世紀から2世紀頃。日本に伝わったのは、6世紀前半と言われているので飛鳥時代、ということになる。
維摩経は物語形式になっていて、翻訳も現代訳のものが多数あり、大変読みやすい。ストーリーも違和感なく入り込めるので、この文章を読んで興味を持たれたらぜひ読んでみることをおすすめする。
色々な個性をもった菩薩たちが出てくる。たとえば
舎利弗(しゃりほつ)……智慧で彼より優れているものはいない
木蓮(もくれん)……超能力が使える
大迦葉(だいかしょう)……厳格な修行をするのが得意
須菩提(しゅぼだい)……「空」を極めし者
富楼那(ふるな)……相手を説得し共感を与える「説法」の名手
迦旃延……議論をしたら彼にかなう者はいない
こんな感じだ。彼ら菩薩は、釈迦のもとに集って一緒に生活して修行をしているという場面設定。マンガやアニメのキャラクターのようだろう。菩薩それぞれが自分の得意分野を持っており、釈迦という主のもとに集っている。
この設定は少年マンガの王道だ。「ハンターハンター」でも、幻影旅団はクロロというボスの元に集っており、なおかつ一人ひとりが個性ある特殊能力を持っている。「テニスの王子様」でも、手塚部長の元に、さまざまなテニスをする個性集団がレギュラー目指して鎬を削っているのが青学テニス部だった。
この設定だけでも維摩経に興味をそそられるのでは無いだろうか。
しかも維摩経の中で、これら個性豊かな菩薩たちは前振りとして使われることが多い。いわゆる「前座」であって、もっと言えば「やられ役」なのだ。これも少年マンガの王道。強いと思っていた者のさらに上が存在する。実力のある者を倒して、その倒した者を引き立てる。
これの例えは、「グラップラー刃牙」に出てきてもらおう。「グラップラー刃牙」は格闘技マンガ。世界一を目指して猛者たちが対決を繰り広げる。現実世界の格闘技ではムエタイが非常に強い。どのリングや団体を見ても、ムエタイを学んだ者には盤石の強さがある。けれどグラップラー刃牙の世界ではムエタイに存在感はそれほどない。なぜか。ムエタイがやられてしまうからだ。ムエタイを使う者がやられ役になって、刃牙たち主人公グループを引き立てている。
維摩経の中でも、個性に特化した菩薩たちは確かに素晴らしい。うまく個性が設定されていて、魅力のあるキャラクターにしてある。けれど……というかだからこそ、やられ役なのだ。魅力ある個性をもった菩薩をやられ役にするからこそ、引き立つのだ。
誰が引き立つのかというと、維摩経の主人公「維摩」が引き立つ。維摩は彼ら菩薩たちを、ことごとく論破して回る。もしくは菩薩たちが何か話した後に、もっと良いことを言う。上には上がいる、という世界観。菩薩によって維摩の魅力が引き立つ。
この維摩経。クライマックスと言われているのが、第14章まであるうちの第9章「入不二法門」だ。ここでは「悟りを開く(不二の法門に入る)とはどういうことか」が議論されている。二項対立とはどういうことかが、菩薩たちと維摩によって話し合われているのだ。
まず、「悟りを開くこと」が「二項対立とは」というのが面白い。一見関係のないことのように思うけれど、これには心底共感する。菩薩や釈迦の目的は世界平和だろうから、悟りを開くとは世界平和に貢献するような知見を得ることではあるのだけれど、世界平和とは二項対立を理解すること。二項対立を無くすこと、二項対立から開放されることなのだ。
男と女、白と黒、光と影、富豪と貧乏、子持ちと子無し、日本人と外国人、強者と弱者、インテリとバカ、肉食と草食、夏と冬、文系と理系、アナログとデジタル、綺麗と醜悪、子どもと大人、単数と複数、高いと低い。
「二項対立から開放される」とは「思い込みをはずせ」とか「フィルターを無くせ」とか「差別をするな」という意味になる。対立を作るのは線を引くことなのだ。男と女のように人間に線を引いたり、文系と理系のように学問に線を引いたり。この線を引くことが、悪の心を生むのだ。
どうして線を引くと悪の心が生まれるのか。それは「こだわり」ができるからだ。「〇〇でなくてはならない」とか「〇〇の方がいい」という欲が湧く。執着心だ。この執着心によって他方を蔑むし、執着しようとすることで角が立つ。
たとえば受験を例にあげよう。大学に入ろうとして皆んな勉強しているのだけれど、当然、大学入試に失敗すれば「高卒」という肩書きになる。成功すれば「大卒」だ。フラットに見れば、この「高卒」にも「大卒」にも優劣の差はない。現実がどうであれ、本来は高卒だろうと大卒だろうと人間性には関係ない。高卒でも大卒でも平等に扱われるのが理想の社会だろうし、そういう学歴フィルターを外したところに、僕たちが進むべき本当の社会がある。
ではどこから学歴フィルターとか、低学歴者を蔑む心が出てくるのかというと、「こだわり」からだ。「大学に行きたい」とか「大学受験に成功したい」という気持ちが、大卒に対する執着心を生み、大卒でない者を蔑む。気にしなければ大卒も高卒も同じであってそこに線は無く、気にしないものだ。憧れ、欲、夢見る気持ち。これらが「大卒に対する高卒」という二項対立を生み出すのだ。
大学に行こうとして、うまく勉強が進まないとする。たとえば受験生の家にまだ幼児の弟がいたりすると、大声で泣くこともあるのでイライラする。
「受験勉強をしたいのに弟が邪魔で勉強が進まない」
これが執着の悪の面だ。悪が生まれる瞬間。線を引っ張ることの罪だ。
面白いのは、線を引っ張ることが功罪両方の面を持っていることだ。線を引っ張ることそれ自体はしょうがないものと言える。人間の根幹だ。僕たち人間が社会を理解しよとすれば、線を引っ張らずにいられない。線を引っ張るから世界を理解できる。モチベーションにもなる。励みにもなる。
ここに机がある。パソコンがある。椅子がある。コーヒーがある。ある特定の物を他と区別するからこそ「理解」が生まれる。これは線を引くことだ。様々な人間がごったに混在する中で、大卒と高卒を分けるからこそ、相手を理解するために1つの指標になる。目安になる。
線と執着は同質だ。線を引けば執着が出てくるし、執着のある所必ず線がひかれる。線を境にして「あっちの方がいい」「向こうに行きたい」という欲や憧れが出てくる。というか、欲や憧れのあるところに線が生まれる。
線とは境界線だ。民族の境界、国家の境界、宗教の境界。この辺りの線を持ち出せば、いかに線を引くことが悪をもたらすか、歴史の授業を受けたことのある僕たちにとっては明白だろう。
維摩経に戻るけど、では二項対立とは何だと言われているのか。前振りの菩薩たちの話から始まる。菩薩たちは前座とは言え、うまいことを言う。言語化しにくい個人的な内面である主観を、巧みに言葉で表現している。
「生じるものでなければ、滅びるのでもない」とか。そもそも影ができるのは光があるからなので、光をつくるべきではないのだ。
さらに、こんなことを言う菩薩までいる。二項対立を見ようとすること自体が二項対立を生むというのだ。二項対立をなくそうとして二項対立を見ることは、二項対立を向こう側に立てている、というもの。そこに、二項対立とそうでないものという線が引かれる。それも二項対立だというのだ。
でもって菩薩たち中のリーダー的存在、文殊菩薩が自分が、菩薩たちの最後にこんな事を言う。「今まで菩薩たちによって話されてきたことすべてが二項対立である」と。文殊菩薩に言わせれば、それまでの菩薩たちは二項対立から自由になっていない。いまだに二項対立に囚われている。何かを言葉にして表現しようとすることは、その対象を意識の向こう側に配していること。何かを表現しようとすれば、自然に線が生まれる。二項対立をなくそうとすれば、何も言わないのが真理だ。無言でなければならない。
この文殊菩薩の意見で、議論はかなり進行したように思える。文殊菩薩の言っていることは真理のように思えるし、これ以上のことはない。が、そこは維摩経。上には上がいるのだ。菩薩たちのリーダー・文殊菩薩とはいえ、あくまで菩薩は菩薩。前座だ。強大な力のベジータでさえフリーザには敵わない。上は幾層にもなって切りがないし、闇だって黒の奥には黒がある。菩薩の上にも上はいるのだ。
文殊菩薩は自分の意見をいった後に、維摩に意見を求める。「自分たち菩薩は意見を一通り言ったけれど、あなたはどう思うのです? あなたの意見を聞かせてください」と。「二項対立を見ようとする視点そのものが二項対立を生む。言語表現を無くすしかない」とまで言われて、維摩は何と答えるのか。
維摩は、沈黙で答えたのである。文殊菩薩に話を振られて、何かを言うのかと思いきや、なんと維摩はだんまりだったのだ。何も言わない、しゃべらない、こそが維摩の答えだったのだ。これは、文殊菩薩が言った「無言こそが答えだ」という理論の実践ということになる。沈黙の実践。
この維摩の答えは「雷の如し」と言われている。だんまりなので、読者は一瞬、「維摩が何も答えられないのか」と、答えに行き詰まっているのかと想像する。菩薩たちを前座にしておいて、奥に鎮座している維摩。いよいよ菩薩たちの下に下ってしまうのか、と思いきやそうではなかった。この沈黙は菩薩たちの答えのはるか上空にあるものだった。やはり維摩は只者ではなかったのである。
文殊菩薩も、この維摩の沈黙の後に「さすがですね〜」と感服している。菩薩たちも皆んなわかったのだ。「沈黙かよ」「そうくるか」「その手があったか」と、維摩の聡明さと沈黙という解を認めている。
ただ、沈黙という維摩の答えには「紙一重だえった」という見方もできて、維摩の天才ぶりはバカにもなりかねなかったギリギリのところだった。というのも、「維摩は本当に無言を実践したのか」という疑問が残る。もしかしたら、本当に答えに窮して言葉が出なかっただけなのではないか。文殊菩薩をはじめ菩薩たちは「さすがっすね〜」と言っていたけれど、実は深読みしすぎていただけだったのではないか。
極端に悪いものと、極端に良いもの。この2つは紙一重なのだ。極端に悪いのものは、見方を少し変えれば、極端に良いものになる。という教えだ。
たとえば、大学受験に成功して大卒になれば、ある一定のステータスは得られるだろうけれど、本当の天才とは大学にすら進学しない。真に人生を謳歌している者、幸福にたどり着いている者は、大学などには行かず、自分の好きなことをして稼いでいる人だったりする。そんな人は進学などしないし、そもそも進学などには興味がない。進学という線引きが見えていなかったりする。バカと天才は紙一重なのだ。
というわけで、維摩経について話してみた。紀元前という遥か過去に書かれたものなに、いま現代に生きる僕らが読んでもわかるという面白さ。もちろん、現代語訳のおかげでもあるだろうし、現代語に訳すにあたって意味が遠からず違ってきている部分もあるだろう。
けれど翻訳をすれば、紀元前に説かれた教えは、今でも十分に通用するのである。ここにも二項対立を越えた視点が感じられて、今でも過去でもどっちでもいいのだろう。時間は関係ない。
「二項対立」「悪とは」「紙一重」など、含蓄に富んだ視点を教えてくれる維摩経。読んでおいて損はない。色々な場面に使える。仕事のプレゼンでも、友人と話をする中でも、維摩経から比喩を持ち出せば、説得力があるだろう。
「二項対立といえば維摩経というのがありまして……」「それって維摩が言っていのと同じだよねえ」などと、維摩経から引っ張ってくるのである。自身の考えに含みを持たせてくれる維摩経の紹介だった。ぜひ読んでみてほしい。
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