権威の否定。プロとして仕事をするよりもアマチュアの方が尊いという話し

2021.01.11 (月)

維摩経とは「空(くう)」の思想を説く仏典である。

 

 

仏典と言うと、僕たち日本人は般若心経を思い浮かべる人が多い。お葬式の時にお坊さんが読む「あれ」だ。あの般若心経にも「空」のことが書かれていて、そこにあるのは約300字の漢字。あの漢字の羅列の中に、「空とは何もないこと……」などというメッセージが表現されている。

 

 

般若心経とは、エッセイである。「空とはこういうことだ」という主張の根幹が表現されているのだ。同じ仏典でも、維摩経には般若心経と違ってストーリーがある。いわば小説だ。小説形式のストーリーの中で、「空とはこういうことだ」というのが読者に主張されている。

 

 

ストーリーなのだから当然、主人公なる人物がいるのだけれど、それが維摩(ゆいま)という人物である。維摩の一番の特徴は、在家であるということだ。在家とは出家に対する対義語であって、出家とはお坊さんになること。

 

 

出家とは、お坊さんになって悟りを開く事を目指す。プロとして仏の道に進むことだ。お坊さんを専門にやっている人のことだ。それに対して在家とは、プロでない仏教徒のこと。いわばアマチュアである。お坊さんにはならず、悟りを開くことを目指しながらも、並行して他の道も進んでいること。

 

 

こんな風に書くと、プロの方がアマチュアよりも「偉い」あるいは「わかっている」という感じがするのではないだろうか。

 

 

スポーツのプロだとわかりやすいけれど、たとえばプロ野球選手は野球一筋で食べている。他のことは頭に無いので、人生のすべての時間を野球に向けていることになる。それに比べてアマチュアの野球選手だと、すべての時間を野球に向けているわけではない。練習時間は少なくなるし、志も低くなる。

 

 

けれどここが難しいところで、だからといって単純にプロの方をアマチュアの上に配置して考えられるのかというとそうではない。というのも、プロは視野が狭くなってしまうからだ。自分の専門以外が見られなくなるので、自分の専門を外側から客観的に眺めることが難しくなる。

 

 

 

本人としては「客観的に」見ることを意識しているつもりでも、その頭の中の客観性は薄いと言える。そうなるとどうなるか。俗世間から離れてしまうのだ。いつの間にか、自分が立っていた地面から足が離れてしまうのだ。

 

 

それは、飛んでいるトンボを捕まえようとして上空ばかり見て走っていて、いつの間にか崖から足を踏み外すようなもの。目的であるトンボばかりを見ているので、「自分がどこにいるか」がおろそかになる。根幹が揺らいでしまうのだ。本来、自分の足場がしっかりしていてこそ、対象を捕まえることができる。自分の足が空中に浮いてしまっては(地面がなくなってしまっては)、トンボを捕まえられるはずもない。

 

 

しっかりと地面に立って、つまり崖から落ちて死んでしまうことなしにトンボを捕まえる事が重要だ。トンボばかりを見ていると、足元に意識が行き渡らない。トンボを捕まえたいのはわかるけれど、他を見ずにトンボばかりを見て走るわけにはいかない。トンボを捕まえるという目的を達成するためには、対象を見ると同時にそんなことをしている自分を見る第三者の目が必要なのだ。それが客観の視点になる。

 

 

この本来自分がいた位置、あるいは本来自分がいるべき位置が、プロをやっているとわからなくなる。

 

 

憧れの職業になった途端、その職業が嫌になることがある。たとえば警察官も正義を実現したくてなったわけだけれど、警察官をやっていると何が正義なのかわからなくなる。被害届をとって、逮捕状をとって、犯人を捕まえて、取り調べをして、交通切符を切って、パトカーを運転して、組織の中でうまく泳いで……なんてことをやっていると、「自分は何のために警察官になったんだっけ」というのを忘れてしまう。気がつくと、警察官とは関係のないことをやってしまっている自分に気づく。

 

 

いや「警察官と関係のない」ことはない。警察官として仕事をしている限り、やっている仕事はすべて警察官と直結している。というか、やっている仕事そのものが警察官を成り立たせている。けれど、その場合の警察官とは、本来夢見ていた警察官像とはかけ離れた警察官だ。

 

 

警察官になる前に憧れていた理想の警察官とは随分と違う道を進んでいることに気がつく。正義を実現したくて警察官になったのに、その正義を実現する道とは違う道を歩んでいる自分に気がつく。そうなると、「むしろ警察官というのは正義の実現のために必要ないのではないか」という気さえしてくる。

 

 

正義を代表するもの、正義の代名詞として警察官を選んだわけだけれど、囚われていただけのことだったのではないかと。世間に跋扈する、安直な「正義=警察」という図式に惑わされていただけだったことに気づく。

 

 

そうなると、プロの方をアマチュアよりも上に配置する考えに揺らぎが出てくる。警察官は正義を実現するプロであるわけだけれど、プロになることでかえって本来の目的から遠ざかってしまったのだ。「やることが決まっていて自由が効かない」という意味では、むしろ警察官にならない方が正義を実現することができるのだ。

 

 

トンボを捕まえようとして上空ばかり見ていて、足元がお留守になっているのと同じ状態である。

 

 

たしかにプロの方がアマチュアよりも上だ。もっぱら自分の専門ばかりやっているし、ばかりやっているからこそ専門なのだ。時間の多くをそれに費やしているので、人生を賭けていることにもなる。他は目に入らない。他には移ることができない背水の陣だ。

 

 

けれどそれは足場が非常にもろい氷の上をなりふり構わずに走っているようなもので、一歩間違えれば奈落に真っ逆さま。蜘蛛の糸を登っているようなもので、地獄に真っ逆さまだ。

 

 

いつの間にか自分は違うところを走っているのかもしれない。いつの間にか落ちていて、気づくのは後戻りできないほど落ちてしまってから。

 

 

つまり、一般的には何事もプロの方がアマチュアより上というイメージがあるけれど実際はそう違いはないよ、ということだ。むしろプロという枠を外して考えられる分、アマチュアの方が本来の目的に適っているのではないか? ということ。

 

 

これが仏教の道を目指すということであればなおさらのことになる。「空」の思想を説くとは、執着心を否定すること、物事にこだわらないこと、線を引かないこと。「プロとアマチュア」という線を引き、プロという聖域のようなものを作ってしまう視点は空の思想とは真逆だ。

 

 

プロは線を引いてプロになる。プロには「プロ」という枠組みがあるが、アマチュアという枠組みはもっとざっくりとしたもの。アマチュアという枠組みは曖昧なものである。プロには資格がいるが、アマチュアには資格がない。特に資格もなく進んでいればそれは最低限アマチュアであろうから、アマチュアにとっては線を引くことがない。

 

 

アマチュアは、「一般的にプロよりも下に見られる」というレベルで仕事をしているので、プロに比べて執着心が無い。

 

 

プロであれば「アマチュアに見られたくない」「自分たちプロはアマチュアより上だ」「プロからアマチュアに落ちたくない」と思うだろうが、アマチュアは「プロと見られたくない「自分たちアマチュアはプロより下だ」「アマチュアからプロに上がりたくない」なんて思いはしないだろう。自分の現在地、自分の所有に対する執着心が無いのだ。

 

 

「空」の思想とは、執着心を否定することであって、こだわらないことであって、線を引かないことだ。これを人に説くには、まず自分がそうなっていなくてはならない。自分が執着心を持たず、物事にこだわらず、線を引かない人間でなければならない。プロよりもアマチュアの方が、「空」の思想に適っている。

 

 

維摩経の一番の山は、「入不二法門」という章。ここでは二項対立について説かれている。「悟りを開くことは二項対立から解放されることである」というのが前提にあって、では「二項対立から解放されるとはどういうことか」というのが菩薩と維摩によって議論されている。

 

 

菩薩とは、ここではプロという位置づけで扱われている。木蓮だの大迦葉だの須菩提だの、皆んな菩薩であって、出家したプロのお坊さんだ。それに対して維摩は在家である。お坊さんを専門としてやっているわけではない。ごく一般的な暮しを続けつつ、悟りの道を目指している。

 

 

維摩は視野狭窄におちいることもなく、それゆえにプロよりも達観している。維摩はプロである菩薩たちを論破して回る。

 

 

病気で寝ている維摩のところに菩薩たちがお見舞いに来た、というのが維摩経のストーリーのはず。それなのに、維摩は菩薩たちに「不二の法門に入る(悟りを開く)とはどういうことか」と質問し、議論をふっかけたのだ。

 

 

菩薩たち一人ひとりが自分の考えを話す。プロとは言え、というかプロであるがゆえに、一人ひとりの菩薩は素晴らしい答えを言う。それはいずれも正解だ。ただ、甘い。奥には奥が控えている。主張の最後は維摩だ。各菩薩たちが自分の答えを話した後で、維摩は自分の答えを話す。維摩の答えも逸品だ。

 

 

二項対立とはどういうことか。菩薩たちの答えは概ね似通っている。「光があるがゆえに、光と影という二項対立ができるので、光を否定することだ」とか、「光と影があるという視点こそがいけない。二項対立という『向こう側』と、それを見ている『こちら側』に分かれる。二項対立という考えそのものがダメなのだ」とか。

 

 

でもって菩薩たちのリーダー、文殊菩薩はこんなことを主張する。言葉で表現する事自体がダメなのだと。なんと、それまでの菩薩たちの主張を、リーダーが一蹴するのだ。言葉とは分けること。たとえば「机」という名前をつけるから、家具の中から机が分けられる。「コーヒー」という名前をつけるから、飲み物の中からコーヒーが分けられる。二項対立という分ける作業をなくすには、無言でなければならない、と文殊菩薩は言うのだ。

 

 

維摩は「無言こそが二項対立から解放されることだ」という文殊菩薩の主張の後に自説を述べることになる。「ではあなたはどう思うのです?」と文殊菩薩から振られるのだ。

 

 

で、ここで維摩がとった主張が、「雷の如し」とも形容される沈黙である。なんと維摩は文殊菩薩の振りに答えることなく、ダンマリを決め込んだのだ。寝込んでいる自分のお見舞いに来てくれた皆んなが自説を展開した後で、自分に番が回ってきたかと思うと、まさかのダンマリ。しかも「悟りを開くとはどういうことか」という話題だって、自分で振ったことなのに。

 

 

「自分が周りに気を使わなければならない」という圧倒的な不利な状況においてのダンマリ。しゃあしゃあと自説を展開する菩薩たちなんかより、維摩は一段上にいる存在なのだ。文殊菩薩もこれには「ダンマリとは素晴らしい」と大絶賛。文殊菩薩は言葉を使って「無言こそが」と言ったのに対し、維摩は実際の無言で訴えた。理論と実践、どっちが上かと言えば、実践を実行した維摩の方が上であろう。

 

 

この維摩の沈黙には、「アマチュアの維摩がプロの菩薩を打ち負かした」という意味の他に、「プロもアマチュアも変わらない」というメッセージが含まれている。二項対立の線を引くことに意味はない。「二項が対立するような線は本来ない」という含蓄がある。

 

 

というのも、維摩はダンマリして何も言わなかったのだ。維摩が「無言の実践という意味で沈黙した」というのは文殊菩薩の解釈。維摩自身は、自分の沈黙については何も言っていない。もしかしたら、維摩は答えに窮して沈黙だったのかもしれないし、ただ眠かっただけかもしれない。文殊菩薩の質問を聞いていなかっただけなのかもしれない。

 

 

もしそうだとしたら、維摩のレベルは菩薩たちよりも下ることになる。「何も答えられない」という最低の答えは、「沈黙」という最高の答えと紙一重。区別をつけることはできない。線を引くことはできない。最低も最高も違いは無い、つまり二項対立から解放されているというメッセージ。それが維摩の沈黙だったのだ。

 

 

維摩経は現代語訳で出版されており、小説のように素直に読める。哲学を扱った難しい本よりもよっぽど読みやすい。僕が読んだのはこの本。

 

 

維摩経の内容の他に、著者による維摩経概論が序章で述べられている。この序章を読むだけでも勉強になる。仏教の中での維摩経の位置づけがわかる。

 

 

僕たちは生きていると、ついつい権威主義におちいってしまう。きちんとしたことを言っている人、きちんとした身なりをしている人、きちんとした地位にいる人を、上に見て「自分よりも偉い」と思ってしまうのだ。

 

 

そこには憧れが出てくるので、「自分もああなりたい」と思ってしまう。自分とその人に線を引いて、二項対立が出来上がる。自分とその人をに違いを見言い出してしまう。確かに憧れというのは動力源として強力だ。進むべき道が困難なとき、この動力源はモチベーションとなって背中を押してくれる。

 

 

けれど、それはあくまでも地に足がついていての話し。地に足がつかないで強力な動力源を持ち出すと、本来の目的とは違った方向に向かってしまう。動力源を特別視してはいけない。動力源が「ある」とか「ない」とか、そんなことを考えてはいけない。

 

 

プロになろうと、なっていなかろうと関係ない。出家だろうと在家だろうと関係ない。自分に資格があるとかないとか関係ないのだ。むしろ線を意識しないでいられる立場である方が得だ。空である方が空の理念に沿っているのである。

 

 


 

 

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