アドバイスでなくてユーモアを提供しよう
僕は普段から、アドバイスほど意味のないものはないと思っている。仕事でも家庭でも、自分よりも年下や経歴の少ない人にはアドバイスしたくなるが、これほど役に立たないものはない。
アドバイスは、する側が「役に立つだろう」と思っているからすることになる。「これを言えば、相手はもっと良くなるだろう」と思っているからアドバイスする。だから余計にたちが悪いのだ。「アドバイスが無能」という事実に無自覚。さらには「アドバイスは有能であるだろう」という勘違い。これほど悪の所業であることはないのだ。
「そんなことはない。アドバイスは有用である。だって間違って進んでいる人を正しい道に連れ戻す効果があるじゃないか」と思う人がいるかもしれない。けど思い出してほしいのだけれど、果たして正しい道なんてあるのだろうか。何が正しくて、何が間違っているなんて、あるのだろうか。
「人生のように抽象的なものには正しいも正しくないも無いかもしれないけれど、仕事にはある」と人はいうかもしれない。けど僕が思うに、仕事にすら正しいも正しくないも無い。
もしかしたら「職場に利益をもたらす選択のほうが正しい」という人がいるかもしれない。確かに「職場に利益をもたらすにはどうすればいいか」で考えれば、どちらが正しいかはわかってきそうだ。利益をもたらす道ともたらさない道に分けられる。利益をもたらさない道を歩いている後輩に、利益をもたらす道を諭すことはできる。そういうアドバイスはあるかもしれない。
けれど、「職場に利益をもたらすのが正しい」という前提を本当に正しいのかと考えると、それすら怪しいだろう。我々は構造の中で生きている。自分が属する社会構造が選択したものしか、我々構成員は見ることができないし、感じることができない。そう考えると、自分が正しいと信じていることの向こう側にも、正しいことがあると想像できる。自分が「これは常識だよね」と言えるものが常識ではなくて、ほかの価値観を常識だと考える社会構造が存在することも想像できる。
結局は、アドバイスとは自分たちが属する社会集団の常識を押し付けるだけだ。限られた範囲の中でしか通用しない考えを伝えるだけだ。
そう考えると、やはりアドバイスというものに有用性はない。それでもアドバイスをしようと後輩に何かしら苦言をする人は、「わかっていない人」ということになる。視野が狭い人。自分たちがすべてだと勘違いしている人、ということになる。
アドバイスが有用でないとしたら、我々は何ができるのか。
そもそも仕事とはアドバイスである。他人に対して「こうした方がいいよ」「こうすればうまくいくよ」という利益の提供・価値の提供が仕事であると考えるならば、仕事なんて意味のないことになるだろう。アドバイスが意味ないとしたら、アドバイスと同義である仕事も意味のないことになる。
では我々は、なんの為に仕事をしているのか。なんのために他人にメッセージを送っているのか。文章を書いて、音声を流して、動画を撮って。そんなことが他人へのアドバイスでないとすれば、何であるというのか。
僕は、相手に前を向かせることだと思っている。顔を上げさるのだ。元気になってもらって、勇気を取り戻してもらって。悲しんでいた状態やふさぎ込んでいた状態から抜け出して、喜んでもらう。
僕たちにできることはそれだけなのだ。「アドバイスをしよう」とか、「有用なことを教えてあげよう」とかおこがましい。アドバイスほど意味の無いものは無い。相手が肩の力が抜けて前向きになってくれればそれでいいし、それが理想な価値の提供だろう。狭い価値観に沿わせることもない。歩いていく方向は相手自身が決める。決してアドバイスで道を教えてあげようだなんて思っていはいけない。
文章であっても話し言葉であっても、有用なアドバイスであろうとしてはいけない。
では何を文章に書き話しに入れればいいのか。アドバイスでないなら何なら良いのか。
それはユーモアだ。相手の顔を上げるもの。相手が「もう一度頑張ろう」と思えるもの。重くのしかかっているプレッシャーに対して少しでも「軽くなった」と思ってもらえるようなもの。そんな内容を提供しなければならない。
ユーモアのある文章とは何か。それは、他人と違うことを熱心に主張することだ。
確かにユーモアにもいくつか種類がある。自虐でもいけるだろうし。下品なネタでもいけるだろうし。悪口でもいけるだろう。読者を大笑いさせるようなスキルもあるかもしれない。
けれどここで言うのは、大笑いさせるような笑いではない。「フッ……」と一瞬、口元が上に上がるようなユーモア。軽く前を向かせるユーモア。気持ちが軽くなり、うつむいていた顔が正面を向くこと。それができれば、相手はアドバイスなどなくても歩いていけるだろう。むしろアドバイスなど無いほうが良い。進むべき道はアドバイスによってもたらさせれるのではなく、自分で見つけるものだ。自分でさがして見つけることが、真に自分が道を歩むべき標(しるべ)になる。
そのためには、人とズレたことを熱心に主張することが必要なのだ。文章でユーモアを感じさせるのは難しい。実際に目の前で身振り手振り、さらには目配せなどを駆使できる話し言葉と違って、文章の武器はこの字面(じづら)しかない。文字の羅列をなぞってもらって、それのみでユーモアを感じてもらわなければならない。
どうすればいいのか。大丈夫、世間とズレたことを真面目にアピールするだけでいい。生まれながらにお笑いのセンスがない人、生きていく中で性格がお頑なった人。そういう人は、一見まともとは思えないような気持ちを、真剣に相手を説得しようとすればいいのだ。そうすれば、そこにユーモアが生まれる。
作家の筒井康隆は著書「創作の極意と掟」の中で、こう言及していた。
「小説を書こうと思い立つような人ならば、他人にはない、自分にしか表現できないものを持っているという自信がある筈だ。その自信が正しくても間違っていても、いや、正しいということは滅多になくて、小説を書くための正しい自信などというものはどうせろくなものではなく、間違っている方が多いのだが、間違っているからこそ、その自信ある書き方に凄味が生まれるのである。(本文より引用)」
文中の「凄味」は、ユーモアという意味でも使えるはずだ。一般的には間違っていそうなことについて、真面目に論を展開している。読んでいる方は「これホントかなあ」と口先が緩む。本人が正しいと思っていることをアドバイスされるよりよっぽど為になる。
アドバイスは、されても思考が広がらない。「これ」という限定がアドバイスによってなされているからだ。すでにアドバイスによって指定されてしまっているからだ。
けれどユーモアであれば、一歩引いて悩みを見ることができる。ユーモアのある論を読んで「そんなことか」と、入っていた肩の力を抜くことができる。肩の力が抜けて、対象を一歩引いて見ることで、自分で答えを見つけられるようになる。
有用なのはアドバイスではなくて、ユーモアなのだ。ユーモアは世間とズレていることを熱心に主張することで生まれるのだ。
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