子どもの非行を防ぐ、優しさのつくり方とは
優しさのつくり方について説明します。優しさって、どんなものだと思います?おそらく多くの人が、御釈迦様が持っているような崇高なものだと思っているのではないでしょうか?確かに優しさを持っている人は多くいます。おそらく全ての人が、どこかの分野で小さな優しさの一つくらいは持っているのだと思います。
ですけど、それを解明するのは難しい、と思っていないでしょうか。人に優しさを植え付けたり、教えたり、育んだりするのは難しいとは思っていませんか?なぜなら、人に教えるにはその原理を解明しなければならなく、そう考えると、優しさって、崇高なもののような気がしてくるからです。
優しさって、崇高なものでしょうか?弱い人間に対して「助けよう」と思って手を差し伸べること。かわいそうだなと思って、慈悲の心で持って接すること。哀れんで涙ながらに、道を諭そうとすること。などでしょうか?
おそらく優しさっていうのは、このような崇高なものではありません。もっと俗的なものです。簡単なものです。誰もが持っていて、コツさえつかめば実践できる、何気ないものなのです。別に慈悲の心は必要ありません。御釈迦様である必要もありません。かわいそうなもの、弱そうなものに対して涙を流せるような心も必要ありません。
優しさっていうのは、想像力です。脳の考えている部分が拡張する感じ。思いが広がる感じ。目には見えない、認識の部分が膨れ上がる感じ。それが目の前の人まで広がれば、その人に対して優しくなれます。結果的に。だから、何も優しい人っていうのは「優しくしよう」と思って優しい行動をしているのではありません。結果的に、他人から見て優しい行動をしているだけなのです。
世の中を生きているためには、優しさが必要です。私はそれを、警察官をしている中で、嫌というほど認識することができました。それは、想像力ということでもあります。想像力が無いために、優しい行動ができない人というのを、随分見てきました。
例えば、ドロボーです。彼らは人の物を盗んでしまいます。優しさがありません。それは、想像できないからです。ものを盗まれる被害者まで、思いをはせることができないのです。頭の想像が、周りの人間まで広がらず、自分の周りで止まってしまっているのです。
ものを盗まれた人が、どれだけ不便な思いをするか。悔しい思いをするか。困ってしまうか。資産のほとんどを盗まれたら、盗まれた人は生活できなくなるでしょう。食べ物に困り、生活に困り、生きていくのが苦しくなります。
退勤のような大層なものでなくとも、自転車1台でも構いません。いつも使っている自転車を盗まれたら、その自転車を使っているいつもの日常が送れなくなります。自転車だと、「大したものでも無いだろう」と思って、何やら気軽に持っていく人が多くいると思います。
確かにダメージや社会への影響は相対的に少ないかもしれませんが、盗みであることに代わりはありません。どんなに小さくても、盗みが存在することがいけないのです。
私が普段から考えているポイントを3つ紹介します。優しさを育むポイントです。この3つがあれば、誰でも優しさを持つことができます。
「間違っているのは自分かもしれない」
まず一つ目は、「間違っているのは自分かもしれない」と思うことです。最近は、よく自信を持とうなどということが言われています。他人のいうことを聞くな、とか、まずは自分がどうしたいかだ、とか。でも、何やら「自分」が一人歩きしてしまって、人の言うことに聞く耳を持たない、なかなか自分の考えを曲げられない、って言う風潮を促しているように思います。
ソクラテスって知っているでしょうか?昔、学校の授業で勉強したことを覚えていますか?私なんかは高校の時に倫理の授業で教わりました。「無知の知」と言う言葉で有名な、古代ギリシアの哲学者です。ソクラテスは、「ソクラテスほどの賢人はいない」とまで言われていたそうです。その時代、世界の中心であるギリシアで、一番頭が良かったそうです。
なぜか。それ無知であることを知っていたからです、自分が。「自分は知らないほうだ」と思っていたらしいのです。「他にもたくさん、頭がいい人がいる」中にいて、ソクラテスはなかなか、自分が賢人だと言われることが不思議で理由がわかりませんでした。ですが、ある時に気づくのです。「そうか。私は、自分が知らない方だと思っている。その点において、他の人間より優れているんだ」と。
無知を自覚している、と言うことです。これは、「自覚」というものがいかに大事か、ということを物語っています。例えば、非効率な仕事をする人、あなたの周りにもいると思います。そんな人に、「いくら仕事が非効率だよ」と教えたところで、その人に非効率ぶりは変わらないでしょう。それは、自分で気づくしか無いからです。自分の仕事が非効率なことに、自分で気づくしか、改善する方法がないからです。
認識には3つの領域があると言われています。丸を大きさの違う丸を3つ重ねたような状態です。一つ目が、「知っている」という領域。これは、一番内側に存在すると考えればわかりやすいと思います。ソクラテス風にいうと「知の知」です。一般な知識を考えればわかりやすいと思います。
例えば私はTOEIC500点ほどです。前にテストを受けて、何回あくけたんですけど、結局は500点前後でした。私は、私にTOEIC500点の知識があることを知っています。
次に、その「知の知」の外側に広がる領域。「無知の知」と言われる領域です。「知らないことを知っている」という領域です。例えば、私は自分に理系の知識がないことを知っています。数学や工学や物理、科学系の知識。今では非常に悔しいと思うのですが、学生の頃に勉強してこなかったのです。
一般的には、認識というのは「知っている」と「知らない」なので、領域的にはこの二つだけだと思われますが、実は「知らない」は「知らないことを知っている」と「知らないことすら知らない」の二つに分けられるのです。「知らないことを知っている」の外側には、「知らないことすら知らない」という領域が広がっているのです。
「知らないという自覚がない」ということでもあります。ですので、この領域は、おそらく一番広くて深くて、です。どのくらいまで広がっているのか、想像もつかないでしょう。何しろ自覚がないのですから。
この「自覚がない」領域から「無知の知」の領域に物事を持ってくることが、「自覚」ということでもあります。物事を達成する上で、何が一番難しいかといえば、自覚することです。自覚さえしてしまえばあとはなんとかなるのですが、自分で自覚できないがゆえに、取り組むこともできないでそのまま放置されていることが山のようにあるのだと思います。
「間違っているのは自分かもしれない」とは、3つ目の領域を意識することでもあります。「知らないことを知らない」領域が自分にも存在することを想像するのです。目の前に自分とは違う価値観の人が現れた際に、「この人は自分が知らないことを知っているのかもしれない」と。
「自分が3つ目の領域にあるものを、この人は二つ目、あるいは一つ目の領域に納めているのかもしれない」「知らないの、間違っているのは、自分の方かもしれない」と思うことで、むやみに相手を訂正しようとすることもなくなるでしょう。相手を責めることがなくなります。なぜなら「責任は自分にあるかも」と考えることができるのですから。結果的に優しい行動をとることができます。
断絶しないで考えられる
二つ目は、断絶しないで考えることです。自分とは違う生き物だとは思わないことです。同じ人間、同じ種族、同じテリトリーに住んでいる者。そのように考えるのです。自分と相手の立場を同じと考えるのです。そうしないと、相手を責めることを許してしまいます。
「自分とあいつは違うから」「自分の場合は特別だから」と、相手と立場と自分の立場を断絶して考えてしまうと、責める理由を自分に許すことになります。
想像力も働かなくなります。相手の立場を想像することもできなくなります。相手の視点まで想像力が届かなくなります。同じと考えるからこそ、相手の視点まで想像を飛ばすことができます。目の前の人間が自分とは違う意見を言ってきたときに、相手の視点を想像するのです。
「なんでこの人はこんなことを言っているんだろう」「どうして自分とは違う視点を持っているんだろう」「なぜこの人は、こんな考えなんだろう」「その裏にはどんなん理由があるのか」「この人は、どうして自分とは違う価値観を持っているのか」「この意見を持つことによって、この人にはどんなメリットがあるのか」
このように相手の視点、相手の背景、相手の思考方向の原因、そこまで想像力を伸ばすことで、むやみに相手を否定することもなくなります。相手を攻撃して、自分の正しさを示そうとすることもなくなります。結果的に、優しい行動ができるようになるのです。
ルーズになる
3つ目は、ルーズになることです。ちょっと格好いい言葉を使えば、寛容的になることです。相手を許すことです。正解はありません。どっちでもいいのです。白黒はっきりさせようとするから、争いごとが起こります。
世の中に正解なんてものは、基本的にありません。状況状況によって、正解にも不正解にもなり得るものばかりです。たとえ白だと思っていても、見方や見る方向をちょっとずらすだけで、黒にも見えます。
正解というのは、見方を変えれば不正解です。メリットとデメリットは共存します。何事にも陰と陽が共存するのです。よく言われうことかもしれませんが、成功の反対は失敗でしょうか。確かに成功の反対語と考えたら、失敗かもしれません。
ですが、おそらく成功の反対は「行動しない」ということでしょう。成功というのは、行動の結果の一形態でしかありません。行動した結果は成功にも失敗にもなり得ます。どっちに転ぶのかはやってみなくてはわからないのです。
例えば、子供は時間にルーズです。なかなか時間通りに動いてはくれません。いつまでも朝は起きないし、いつまでも寝ています。起きたところで朝ごはんは食べないし。食べても学校に遅れそうになるし。かと言って学校から帰った後、いつまでもYouTubeは見ています。止まることを知りません。宿題は、夜遅くにやります。寝る時間が遅れ、これの繰り返しです。
ですが、こんな子どもの生活はただすべきものでしょうか。時間通りの生活は幸せでしょうか。時間どおりに遅れずに行動できる人は、付き合っていく中で自分にとっては都合がいいのですが、当人は本当に幸せなのでしょうか。
世の中は、時間に支配されすぎなように思えます。何時に●●をして、その後の何時までに◯◯そして、それから何分で◆◆を終わらせて。本来、私たちは自分の時間を自分でコントロールして生きるべきです。時間とは自分で行動した結果であるはずですから。
それなのに、いつの間にか時間に縛られての生活が当たり前になってしまいました。その方が、効率的で都合がいいからです。ですけどよく言われていますよね。どれだけ無駄な時間を過ごしてきたかが、その人の幅を広げるんです。時間通りに動くことは、いわゆる想定内の中だけで生きているのと同じです。
ですが、想定外のことにもしかしたら、宝珠が潜んでいるかもしれません。やってみたら以外とよかった事が、その人の人間性を拡張させます。
どっちでもいいんです。正解はありません。想定内の成功ばかりを求めるのではなくて、想定外の失敗を求めるんです。で、失敗の先にあるものを想像するんです。おそらく本当の意味での失敗ではないはずです。多くの気づきや学びを得られるものであるはずです。
自分とは違う価値観を持った相手を許してあげてください。自分にとっての正解を選択しなかった相手を許容するんです。そうすれば、結果的に、優しい行動をしていることになります。
「間違っているのは自分かもしれない」、断絶しないで考える、ルーズになること。このように、優しさとは、決して御釈迦様の心のような、崇高で慈悲深いものではりません。優しい人というのは、結果的に優しい言動をしているだけです。何も相手に対して慈悲の心で手を差し伸べようなどの思っているのではありません。
必要なのは、想像力です。そんな単純で簡単なものが、優しさの正体なのです。
プレゼントの無料小冊子を更新しました。「子どもの非行を防ぐための素直な頭のつくり方」です。
非行に走る子どもは自己中が多いです。頭が固く、自分の価値観に固執しています。周りの人間の価値観や考えを受け入れられず、自分を通そうとします。自分以外の価値観や考えがあること自体が、見えていないのです。自分が正しくて、自分以外の考えは間違いだという先入観から抜けられない状態です。
子どもは周りから吸収する度合いが強いので、子どもの成長は周りの大人次第の側面があります。「周りの大人が自己中から脱し、素直な頭を持つ事で、接する子どもにも好影響を与えよう」というのが、この小冊子の狙いになります。
頭の柔軟性があり、状況や相手に応じて変化できる事。自分だけでなく、相手の考えも認める事ができる事。一つ上から全体を俯瞰できる事。そんな「素直な頭」をつくるための気づきを、この小冊子から得ていただければと思います。
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