どら焼きを食べながら「怒りについて」を読もう
死海文書とは2000年ほど前に書かれた古文書で、聖書にも影響を与えているものらしい。「2,000年前」というと、ずいぶんと昔のように思える。現代の僕たちの生活とは大きく隔たっていて、知的とかハイテクとは正反対の生活水準だったのではないかと想像する。
記事に載っていた死海文書の写真を見るとボロボロだ。2,000年前当時の物は、壊れた古文書のように今となってはその価値もボロボロなのではないかと思ってしまう。
確かに古文書のような物理的な物に関しては、2,000年もの時間を経ればボロボロになってしまう。古文書は断片しか残っていない。遺跡だって、見れば2,000年前のもので残っているのは柱などの一部分のみである。
けれどボロボロになるのは、物理的なものに関してのみだ。「2,000年前当時の価値が今となっては残っていない」のは、精神的なものに関しては通用しない。紀元前後に生きた人たちの考え、思料、知力。それは、2011年という現代を生きる僕たちにも十分に通用するものなのだ。僕たちがそれを聞いても「なるほど」と思えるものだ。
「怒りについて」という本がある。これは、紀元前後に生きた古代ローマの哲学者セネカが書いた、怒りについての考察である。
「怒りとは何か」「どうやったら怒りを抑えられるか」が書かれてある。2,000年前に書かれたものだと侮るなかれ。科学すら持たない後進文明の遺産だと油断することなかれ。怒りを見渡す眼力の鋭さは、恐ろしく深い。思慮深さとは科学的なポイントとは別の視点なのだと思い知らされる。
セネカは、怒りを徹底的に排除するべきもの見ている。
「怒りも時には必要ではないか」という声に対して、「それは違う」と100パーセント排除する姿勢で反論している。「敵と戦う時に自分を奮い立たせるには怒りが必要だ」とか「子どもを教育するのに怒りは必要だ」という文中の声に対して、「怒りは破壊的な衝動でしか無い」という対決姿勢を示している。
僕には警察官の経験があるのだけれど、警察という組織には伝統的に、怒りに対して甘い風潮がある。怒りを「仕方のないもの」「有益なもの」と捉えているのだ。
世間ではハラスメントに対して敏感になっている。僕が社会人になった20年前は、まだハラスメントという言葉は一般的ではなかった。それがこの10年の間に随分と社会に染み入るように広がってきた。
日本人の性質で、外部のものを自分の文化に取り込むのは得意だ。ハラスメントという外来語も様々ななものに付けられている。「セクハラ」「パワハラ」「モラハラ」はよく聞くが、ハゲをバカにする「ヘアハラ」なんてのも聞いたことがある。それだけハラスメントが社会に染み入っているということ。
世間的には忌むべき対象のハラスメント、特にパワハラも警察内部ではいまだに信仰者がいる。「指導に怒ることは必要だ」とか「怒らなければ相手に反省を促せない」とか。
自衛隊もそうかもしれないけれど、規律を重んじるという風潮から、ハラスメントがいまだに新興されている。上から下への上意下達、純度の高いトップダウンの司令方式が、上に立つ人間にとって都合のいいように解釈されている。手を出してはいけない聖域であるかのように。
たとえ世の中にパワハラという言葉が浸透しても、自分たちの組織ではパワハラは必要である。ある程度のパワハラが許される最後の砦を守らねばならない、と警察内の多くの人間が思っている。
「怒ってビビらせて、自分の言うことを聞かせる」
「怒るという威厳でもって、自分の思い通りに動かす」
そんな前時代的な考えを、かたくなに守っている。まるで廃れゆく地方の文化をおじいちゃんおばあちゃんが引き継いでいるようだ。
現代を生きる組織ですら怒りを「仕方のないもの」としているのに、2,000年前に生きたセネカは怒りをすべて排除する方針でいる。科学が身近にある僕たちですら怒りに負けているのに、科学という言葉すらなかった時代のセネカが怒りに徹底抗戦しているのだ。現代に生きる人間としてはなんと情けない。
機器に囲まれている僕たちの精神性がたるんでいるのを横目に、機器を持たずして戦っている人間の精神が高潔であるかのようだ。
「いっさい放逐しなければならない。益になることなど何もない。怒りがなくなれば、犯罪を取り除き、悪人を罰して正道に導くことも、より容易に、より正しくできるようになる」
「だから怒りを認めるようなことは、いっさいあってはならない」
「怒りに対して最大限、両手をもって抗わねばならない。」
怒りに対する徹底抗戦は、怒りを僕たちより思慮深く見ているからこそ言えるのだろう。怒りについてより深く考えているからこそ、怒りの怖さをわかっているのだ。
怒りは狡猾である。少しでも認めれば、それ幸いといつの間にか認められる幅を広げにかかる。まるで陣地を広げるように。
怒りに対して「このくらいなら仕方がない」「少しの怒りは有益だ」とでも考えれば、怒りはすぐさま勢力を取り戻してしまう。ごく一部でのみ認めたものが、認めた瞬間に全域に広がってしまうのだ。
本文にも書かれているとおり、怒りは「ほとばしる」のだ。まるで閃光のように。
認めたらその時点で根こそぎ持っていかれてしまう。「少しくらい」と思って怒りを許してしまえば、怒りの快感に負けて、その会話を、その関係性を、くまなく怒りで満ちたものにしてしまう。少しでも怒気を言葉に込めれば、会話全体に怒りが広がる。結果、会話相手との関係性は怒りを介したものになってしまう。相手は怒られたことを忘れない。
怒りは排除するものなのだ。あらん限り。くまなく。絶やさず。
幸い、死海文書と違って「怒りについて」はボロボロになっているものではない。死海文書は崖から落っこちるような場所にある横穴を捜索して、やっと断片を見つけたらしい。けれど「怒りについて」は、本屋に行けば見つけられる。あるいは外出すら必要なく、Amazonでポチッとするだけで読むことができる。ほぼ原型に近い形で目にすることができる。セネカの考えを余すこと無く読むことができるのあd。
捜索隊が死ぬ思い出見つけた古文書と違って、部屋でどら焼きでも食べながら目にすることができる。2,000年前の英知、「怒りについて」をぜひ読んでほしい。
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