ローマ皇帝は桜木花道なのか。BBC「ザ・ローマ」に見るレトリックと詭弁
「お前は、皇帝に異議を申し立てる気か?」
無表情で妹に問いを投げるローマ皇帝コンスタンティヌス1世。その目には「お前をも殺せる」と言いたげな冷たい狂気が見える。
「皇帝ではなく私の兄です」
答えたコンスタンティアの顔には怒り、それと狂気の兄にすがるしかないという苦しさがにじむ。
この問答は西暦324年、古代ローマ帝国で行われたとされるものだ。政敵のリキニウスを破り、処刑しようとするコンスタンティヌス1世。そこへコンスタンティアが現れる。コンスタンティアはコンスタンティンの異母妹であり、リキニウスの妻でもある。
政治的策略からコンスタンティヌス1世は妹をリキニウスの元へ嫁がせたのだが、コンスタンティアはすでにリキニウスを愛していた。
「夫を殺さないでほしい」
コンスタンティアの、兄コンスタンティヌス1世への懇願から続く問答である。
最近、古代ローマ帝国について調べる機会があって、Amazonを覗いて資料を探していた。BBC制作のドラマ「ザ・ローマ」を見つけて視聴したのだけど、さっきの問答はその中のワンシーンだ。この「ザ・ローマ」は2006年に制作されており、全6話。コンスタンィヌス1世の話は第5話だった。
ドラマ自体も面白かったけど、この問答を見たときに「これってさっきまで読んでいた本そのものじゃん」と、コンスタンティヌス1世とコンスタンティアの問答に注意が向いた。
本というのは、香西秀信著「レトリックと詭弁」。日常の中で発生する他人との議論に負けないように、言葉で身を護る「護心術」を提唱する本である。
甲子園の応援は嫉妬心の表れ
「はじめに」から、この本は面白かった。議論に負けないように言葉を磨くことの必要性を主張するために、著者は甲子園を例に持ち出していた。
公立高校なんかの甲子園出場が決まると、その高校の地元では町ぐるみで応援に駆けつけるのがよくある。著者はこれに疑問を投げつける。恒例行事を温かい目で見ることができないらしい。甲子園出場校を熱烈に応援する地元民の姿を、「自尊心を傷つけることなく賛美している」と冷めた見識を持って見ている。
というのも、もしも地元民が純粋に他人の成功を応援したいのであれば、いい大学に進学した高校生をも応援するはずだ。甲子園出場を決めた公立高校野球部だけでなく、勉強の成績が優秀な高校生も町ぐるみで応援すればいい。高校生の勉学的成功を拍手で迎えたらいい。
そういうことをしないのは、いい大学に進学することが人生での成功に直結すると知っているからだ。甲子園出場校を応援できるのは、スポーツでの成功がそのまま人生での成功に繋がるわけではないことを知っているからだ。甲子園出場校を応援する行為は、自分の自尊心を巧妙に隠していることの表れである。
それが「はじめに」で主張されている内容だ。なるほど、そういうことか。この「地元民の応援は自尊心を隠している説」にどの程度の現実味があるかは「さておき」という感じだけど、初めて聞く論じ方であって新鮮味がある。興味をひかれる。
確かにこの主張には一理ある。僕はスポーツの成績が優秀な他人は客観的に見られるのに、頭のいい他人は嫉妬心を外して見ることができない。「どうせあいつは……」と主観を交えて評価してしまう。この気持ちは僕だけではないだろう。
この「地元民の応援は自尊心を隠している説」から著者は、言葉が人間にとって根本的なものであることを説く。嫉妬を覚えるほど、言葉で負けるということは悔しいものなのだ。この悔しさは人間の本質に根ざしており、「だからレトリックを学ばねばならない」と本書の必要性につなげていく。
問いを制する者は議論を制す
さて、本書には護心術としてどのようなことが書かれているのか。
その昔、湘北高校バスケ部のキャプテン赤木剛憲は、桜木花道に対して「リバウンドを制するものは試合を制す」と諭した。基礎練習の嫌いな花道に、リバウンドを覚えさせるためだ。同じように、議論の世界には「問いを制するものは議論を制する」という言葉があるらしい。少なくとも本書の中ではそう紹介されている。
つまり、問いはそれほど議論の中で重要な位置を占めるということだ。議論で相手に勝つには問いに精通していること。問いをうまく使えるようになることが必要になる。
どうして問いは重要なのか。それは、問いによって相手を自分の思い通りの方向に誘導することができるからだ。議論を有利に進めることができるようになる。
1ミリは切るのか
僕の警察での経験を例に出してみよう。警察官はよく交通取締りをする。道路交通法に違反したドライバーを捕まえて切符を切るのだ。ペナルティーを課されることになるから、ドライバーとしては切符を免れようと言い訳をする。自分が違反してないことを証明しようとしたり、或いは警察官の取締りが不正であることを説明したり。よって、切符を切ろうとする警察官と逃れようとするドライバーの間に議論が発生するのである。
「じゃあ1ミリでもはみ出したら切符を切られるのか?」
例えば「一時停止線不停止」という違反がある。運転免許を持っている人であれば、わからない人はいないだろう。一時停止線のある場所では一時停止しなければならない、という決まりだ。
もしここで読者のあなたが「一時停止違反は自分もわかっている。自分も車を運転するときは必ず停止線で止まっている」と思ったなら、僕は「本当か?」と疑問を呈したい。というのは、警察官以外の人間が思っているほど、一時停止線でしっかりと停止しているドライバーは多くないからだ。警察官になって一時停止違反の取締まりをすると、実に多くのドライバーが一時停止していないことに気づく。
大抵のドライバーは一時停止線があっても原則するだけだ。ピタッと停止はしない。停止線の数メートル手前からブレーキに足を掛け、減速しながら停止線を通り過ぎる。停止線を通り過ぎて交差点の中頃まで入ったときに、そこでようやく停止する。あるいは停止をしないで、減速からそのままアクセルを踏んで交差点を曲がって行ってしまう。一時停止線でピタッと停止する人など、ごく一部だ。
警察官は、そんな車を止め、ドライバーに対して説得を試みる。「一時停止違反ですよ」と。「止まっていませんよ」と。ドライバーからすれば「止まったじゃないか」と反論することになる。なぜなら、減速が停止だと勘違いしているからだ。
ブレーキペダルを足で踏んで車が減速したことで、すでにドライバーは「自分は停止した」という頭になっている。交差点に入ってからにしても停止したことで、「自分は停止線で停止した」という頭になっている。僕たち警察官は勘違いであることを諭して、違反である旨を告げて、切符を切っていた。
説得する過程でよくドライバーから言われるのが、「じゃあ1ミリでもはみ出したら切符を切られるのか?」という喧嘩腰の文句だ。
もちろん、1ミリくらいはみ出して停止したのであれば、切符は切らない。道交法には「停止線の直前で」と書かれているけれど、現実問題として「違反」と「違反でない」がハッキリと分かれているわけではない。グレーゾーンが存在するものだ。
ジャッジをするのは警察官であって、警察官とは人間だ。人間のすることはデジタルのように1と0に分けられない。であれば警察官のすることだってアナログなのだ。「う〜ん、これはどっちなのだろう」「え〜、微妙」という一時停止が時々ある。
そんな微妙なときには切符を切らない。判断に迷う時、グレーゾーンであるときは、違反者を止めたりしない。1ミリ程度のはみ出しはグレーゾーンに分類される。
おそらく「じゃあ1ミリでもはみ出したら切符を切られるのか?」と警察官に詰め寄るように問うドライバーだって、そんなことはわかっているはずだ。1ミリはみ出したくらいでは切符を切られないことはわかっているのだ。1ミリはみ出したくらいのグレーゾーンの一時停止を見逃していることはわかっているのだ。わかっていても、あえて警察官に問う。「警察官を困らせて議論に勝とう」「議論で打ち負かして、あわよくば違反を免除してもらおう」という考えがあっての問いだ。
けれど考えてみてほしい。僕たちは議論をするときに問いを発するけれど、どうして問いという形にしなければならないのか。わざわざ「じゃあ1ミリでもはみ出したら切符を切られるのか?」と問わないで、「あなた(警察官)だって少しの違反なら見逃しているじゃないか」と肯定文で発すればいいのではないか。わざわざ相手にわかりきったことを問うのにはどんな意味があるのだろうか。
問いは自分に都合のいい内閣
まず、問いには自分の都合のいいように言葉を選べるという特権がある。総理大臣が自分勝手に内閣を作るようなものだ。言葉の使い方や選び方次第で、議論はいくらでも有利にも不利にもなる。
「じゃあ1ミリでもはみ出したら切符を切られるのか?」とは「あなた(警察官)だって少しの違反なら見逃しているじゃないか」をより意地悪にしたものだ。「あなた(警察官)だって少しの違反なら見逃しているじゃないか」くらいの意味ではまだまだ中立で、意地悪さが足りない。
「じゃあ1ミリでもはみ出したら切符を切られるのか?」と大げさに言葉を紡ぐことによって、警察官にとって不利な状況を作るのだ。これは実は、問いの形で提唱するのが一番自然だ。「あなた(警察官)だって1ミリはみ出したくらなら見逃しているじゃないか」という肯定文では不自然に感じる。
というのも、ドライバーは「停止線を1ミリはみ出して見逃す警察官」を実際に見てはいないからだ。表現を大げさにすると客観から遠ざかってしまうのであるが、だからこそ問いの形にして「自分は知らないけどそうなんでしょ?」と表現する。結果、議論の中に自然に放り込まれる。
大げさな表現を自然な形で議論の中に投げ入れる。自分の都合のいいように言葉を選べるのが問いの効果だ。
電車に乗ってまっしぐら
しかも、問われた方はこの問いに答えなければならない。答えづらいことを答えなければならない。問いに答えないことは沈黙。本書によれば、沈黙は暫定的な負けになる。議論において「こうでしょ?」と問われてそれに答えられなければ、第三者的に見てどちらが勝ちでどちらが負けかは明らかだろう。
自分の都合のいい言葉を材料として問いを作ることができ、それに答えることを要求する。問いは発せられた時点で、相手を乗せて走っていく電車のようなになる。「答えなければならない」という次の停車駅にまっしぐらだ。
攻防一体のゾーンプレス
それらとプラスして、立証責任を相手に丸投げできるのが問いの優れた性質である。問いに対して「はい」と答えようと「いいえ」と答えようと、立証責任は問われた側にある。議論において「なぜか」を説明する立証責任は避けたいことである。リスクが伴うからだ。もちろん、相手を説得できるのなら構わないけれど、うまく説得できず相手に反撃の機会を与えてしまうことにもなりかねない。説明しなければならない状況は、無いに越したことはない。
問いは、そんな立証責任を相手側に押しつける形になる。「じゃあ1ミリでもはみ出したら切符を切られるのか?」とドライバーが警察官に問うた場合、「はい、なぜなら……」にししろ「いいえ、なぜなら……」にしろ、問われた警察官側が説明するのが自然だろう。
問いとは、「自分はわからないので教えて下さい。判断はあなたに任せます」という体裁をとっている。なので、問う側には立証責任はつきにくい。自分を弱者の側に置き、責任は相手に任せるという流れになる。攻防一体の山王ゾーンプレスばりに攻略困難なテクニックだ。
問いを破る技術
では問いとは、投げられたら終わりなのか。相手から問いを言われたら、言われた側としては必ず窮地に立たされるのか。……というとそうでもない。きちんとした対処方法も本書には記載されている。山王戦のゾーンプレスもそうだけれど、対処方法を身につけていればそんなに怖いものではない。
問いを投げられたらどうすればいいのか。それは、相手に付き合わなければいいのだ。生真面目に問いに答えてはならない。「はい」にしろ「いいえ」にしろ、問いに付き合った瞬間、窮地に立たされる。まだ終わりではないにしろ、その後の議論で自分が不利な状況になるのには変わりがない。
本書には「いかに問いを打ち破るか」「いかに答えずに済ますか」と書かれている。
どういうことか。
「じゃあ1ミリでもはみ出したら切符を切られるのか?」とドライバーから言われた場合、警察官は例えば「今回のあなた(ドライバー)の違反は1ミリじゃないですよ。約5メートルですよ」とか「人間ですから誤差があるのは当たり前です。それでも取締りをしなかったら誰も違反者をとがめる人がいなくなります」などと答えればいい。
今回の例で言えば、ドライバーは「1ミリ」と言ったところに、自分の都合のいいように言葉を組み立てた節がある。「1ミリというごくごく小さいはみ出しでもお宅(警察官)は切符を切るのか? それくらいは誤差の範囲だから切符を切るわけにはいかないだろう」というニュアンスを「1ミリ」という言葉の中に込めたことになる。なので、言い返す警察官としては相手のペースに乗らず、「今回のは1ミリじゃないでしょ」と、相手の都合の良さを崩せばいい。
相手の挑発に乗らず、相手のペースに飲まれず。冷静に、放たれた問いの自分勝手な部分を考える。それが投げられた問いの対処法になる。
コンスタンティヌス1世にとって議論は、ゲームではない
というわけで、冒頭の問答に戻る。コンスタンティヌス1世の「お前は、皇帝に異議を申し立てる気か?」というセリフ。これは問いの形を取っている。議論において極めて効果的な技術だ。
「夫を殺さないでほしい」という妹の懇願を「皇帝に異議を申し立てる」と自分の都合のいいように言葉を作り変えたコンスタンティヌス1世は、議論におけるイロハを知っていると言えよう。問いの形にして「お前は反抗的だ」という主観を交えることで、流れを自分の側に持ってきているのである。
問いの使い手であるコンスタンティヌス1世は、スラムダンクで言えば桜木花道ではないだろうか。湘北のリバウンド王。リバウンドを制する者はゲームを制す。問いを制する者は議論を制するのだ。
対して「皇帝ではなく私の兄です」という妹コンスタンティアの返答。これはうまく相手の問いを打ち崩している。相手に答える形にはなっているが、相手のペースに飲まれること無く、自分のリズムを手放していない。ここで「はい、異議を申し立てています」と答えれば自分も殺されかねない。「いいえ、異議を申し立てておりません」と答えれば、「夫を殺さないでほしい」という自分の要求は通らない。
「皇帝に異議を申し立てる」という自分にとって都合のいい言葉を使ったコンスタンティヌス1世に対し、コンスタンティアは彼の狡猾さを指摘したのだ。問いを崩したのだ。「私は皇帝に異議を申し立てているのではなく、兄に話しかけているのです」という当たり前の主張によって、誇張された部分を露呈した。
相手が相手ならば、コンスタンティアもコンスタンティアである。コンスタンティヌス1世も強いが、コンスタンティアも負けていない。コンスタンティアは河田雅史ではないだろうか。桜木のリバウンド力を見抜き、相手に乗せられずに「ボールとるのはそれからでいい」とスクリーンアウトを優先してボールを取った。河田の洞察力がコンスタンティアに被って見える。
ただ、バスケの試合と違ってコンスタンティヌス1世とコンスタンティアの問答は「死合い」である。生死の駆け引きだ。駆け引きされたのは、コンスタンティアの夫リキニウスの生命。史実は残酷で、コンスタンティアの懇願は実らなかった。夫のリキニウスはその問答から数ヶ月のうちに殺されることになる。
というわけで、BBC「ザ・ローマ」、警察官の取締り、スラムダンクを例えにして、「レトリックと詭弁」に書かれていた議論のポイントを話してみた。
本書の中に「問いを制するものは議論を制す」という言葉を見つけた時から頭にスラムダンクがあった。
読み終わってからこの記事を書くまでの間に偶然見た「ザ・ローマ」でもネタを拾えて、少し特をした気分である。「レトリックと詭弁」を読んでいなかったら、コンスタンティヌス1世とコンスタンティアとの会話の議論テクニックの応酬にも気づかずにスルーしていた。
あらためて、本を読むことで認識する世界の広がりに驚くばかりである。わかるには気づかないといけないし、気づくには広い知識がないといけない。理解していなくとも取っ掛かりのような浅い知識さえあれば気づく可能性はある。うっすら程度だろうと、入れれば世界を広げるための呼び水となるのだ。
僕たちは議論で負けることに悔しさを覚える。対して議論に勝つことに快感を感じる。「はじめに」で著者が指摘していた「それだけ言葉とは本質に根ざしている」というのは全くそのとおりなのだ。僕たちは議論武装しなければならない。いつどこで、どんな形で議論のゴングが鳴るかわからない。誰からふっかけられるかわからない。東海地震が来た場合に備えるように、議論を吹っかけられた場合に備えて、本書を通読してみてはいかがか。
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