君たちはどう生きるか 〜 子どもの非行を防ぐためのブックレビュー
中学生のコペル君と、コペル君のおじさんが中心のお話です。舞台は昭和初期。人間関係や物理現象について疑問を持つコペル君に、コペル君のおじさん(30歳〜40歳代)が、コペル君が立派な人間になれるよう、アドバイスをおくります。
おじさんの言葉で特に私に響いたのは2つ。
「そりゃあコペル君、決まってるじゃないか。自分で考えるんだ。」
と
「苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかという事をとらえる事ができる。」
です。
学校のクラス内にいじめがありながらも、誰もその空気に逆らえないでいる。みんな自分が標的になるのが嫌だから、いけない事だと思っていながらも、その流れを壊せないでいる。いつの間にかみんな、いじめに対して乗っかっている形。
その事について相談したコペル君に対し、おじさんが言ったアドバイスが、「決まってるじゃないか、自分で考えるんだ」です。
例えば私は、ちきりんさんの本やブログが好きでよく呼んでいます。彼女もよく自分で考えることの大切さを説くのですが、私はその事にすごく勇気をもらいます。でも自分で考えることの大切さを昭和初期に出版された本が説いているのを考えると、「社会人の悩みは昔から解決しきれないで繰り返されているんだなぁ」と感じます。
別に悪い事だと思っているのではありません。おそらく昭和初期ではなく、もっともっと昔、聖徳太子の時代、あるいは太古の昔から、「自分で決めなきゃ」というアドバイスが存在しているのかもしれません。そう考えると「これは人間の根幹に関わる悩みなんだな」と、何か人間の悩みの大きな流れのようなものを感じるのです。
実際に私は「自分で考える・自分で決める」事の大切さを知ってから、随分と生きる事が楽になりました。社会を見る目も変わったと思います。
本書でもこのアドバイスをおじさんが言うのですが、このおじさんのアドバイスの絶妙なタイミングと言ったらありません。本書を読んでいく中で、コペル君がおじさんにクラス内のいじめについて相談したとき、私も「いじめに屈しないで声を上げる事」が、「決まってるじゃあないか」の次に来るおじさんのセリフだと思いました。
ですが、ここで「自分で考えるんだ」と言われて、私も「自分で考える」事の使い方をまた1つ、覚えることができました。
次に「苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかという事をとらえる事ができる。」です。
これも「自分で考える事」を前向きにとらえるための言葉です。自分で決める事を実践していくと、いずれ後悔する場面に出くわします。自分の決断が間違った方向にいったときです。
ですが「やめときゃ良かった」「いけば良かった」「間違っていた」という苦痛があるからこそ、人間は自分が間違った方向に向かっている事を知る事ができるのです。
例えば私は人間として生きており、虫よりも長生きができるし、色々な事を考えることができます。もし私がこの後、何かの拍子に虫になってしまったら、人間で亡くなった事を非常に苦痛に感じるでしょう。
例えば私は今、戦争や飢餓のない日本に住んでおり、他の国の飢えと貧困にあえいでいる人よりも恵まれた環境にいると考えられます。もし私が飢えと貧困にあえぐ生活になってしまったら、恵まれた日本での生活がなくなった事に対して、苦痛を感じる事でしょう。
ですが、初めから虫であれば、人間がいかに恵まれている存在かなんて知ることができません。初めから、飢えと飢餓の国に生まれていれば、日本がどんなに恵まれた国かなんて知るよしもありません。
このように、もっといい状態・本来の姿を知っているからこそ、苦痛を感じるのであり、そこに至った自分の決断を後悔します。ですので、後悔とは、自分で決断している証拠でもあり、もう一度本来の姿へ戻るためのステップでもあるのです。
本書は漫画という形をとっており、非常に読みやすくスイスイと読むことができます。ですが時々出てくるおじさんのコペル君に向けた手紙は、読むのに億劫さを感じます。簡単に読める漫画の中に、読むのに骨が折れる文章が突然に出てくるのでギャップを感じるのです。
本書は絵の魅力もあり、とてもとっつきやすい名著です。中学生などの子どもが、この本をステップにしてビジネス本に目覚めるのも面白いと感じました。
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