運転に必要なのは覚悟である〜警察官千葉とうしろうの「ねらい目」

2018.12.13 (木)

運転に必要なのは、覚悟です。運転免許証ももちろんそうですが、それ以上に覚悟が必要なんです。それは、戦地に赴くような覚悟です。戦争に行くときのような覚悟です。「人を殺すかもしれない」、というか、「自分は人を殺す事にになるだろう」という予想、想像をして、その未来の事実を自分で納得することが、車を運転する人間には必要なんです。

 

 

世の中では交通事故が毎日何件も発生しています。大きいのから小さいのまでです。かすり傷を負う程度のものから、人が死んでしまうようなものまでです。交通事故っていうのは、車を運転する際に当たり前について回るリスクなんです。

 

 

車を運転する以上、交通事故に遭うであろうことは、当然に予想していなくてはならないものなんです。それは、たとえ自分が悪くない事故だとしても、です。いや、自分が悪くない事故なんてないでしょう。

 

 

もともと道路や地域というのは、歩行者のためのものです。車を運転しない人がいて、そこに後から車がやってきたのです。もともと地域というものに車は存在していませんでした。そこに車が発明されて、道路ができて、車が走るようになったのです。

 

ですから、車っていうのは、車を運転しない人、いわゆる歩行者よりも優先順位が低いもののはずなんです。車を利用する人間は、歩行者を優先的に扱わなければならないんです。車を運転する運転手は、歩行者に気を使わなければならないんです。

 

 

それなのに、車の方が大きいから、車の方が強いから、車の方が早いから、車の方が存在感が大きいから、車の方が安全だから、という理由で、車の運転手が横柄な図ができてしまっています。歩行者の方が、いつの間にか車に気を使っています。歩く際、道路を渡る際、道路を歩く際、車に気を使って生活しています。

 

 

そんなおかしな状況になっているのが、現代なんです。車は無条件で、歩行者に気を使わなければならないんです。そして、車を運転するならば、いつか歩行者を引いてしまうかもしれない、という覚悟をするべきでしょう。そして、その責任を負う覚悟をするべきなんです。それが、車を運転する人間の責任だと思うんです。もともと地域というのは、歩行者にあるものなんですから。

 

 

私も一昔までは、大きい顔をして車を運転していました。横柄な運転をしていました。歩行者にとってみれば、迷惑な話だっと思います。道路は車のためのものだと思っていました。車っていうのは、華やかで、きらびやかで、格好いいものです。私は具体にとらわれていたんです。

 

 

考えなしに、道路は車のためのものだと思っていました。でも、子どもを持って、子どもを道路で歩かせるようになってわかったんです。歩行者の目で見たら、これほど邪魔な存在はないって。車ほど、道路を歩く人間にとって嫌な存在はないって事に。

 

 

歩行者から見れば、道路を歩いていて車に気を使わなければならない状況は理不尽でしかありません。「どうして車に気を使わなければならないんだろう」「どうして車の方が優先されるんだろう」と思って当然でしょう。

 

 

人はただ、道路を、道を、歩いたり、そこで生活したりしているだけなんですから。そこを後ろから車が走るようになったんです。道路が通り、その上を車が走るようになったんです。もともとは道路も車もなかったんです。

 

 

だから、車を運転する人間には覚悟が必要なんです。「人を殺すかもしれない」という覚悟です。事故はつきものです。車を運転する上で、交通事故は常に付きまといます。交通事故と無縁の運転をする人なんていないでしょう。

 

 

一見、交通事故というのは、どっちが悪いか分からないものです。交通ルールが決まっている以上、交通ルールに従えばいいとも思えます。ですが、それでは甘いんです。交通ルールに則る、では甘いんです。歩行者と車の事故の場合、すべて車が悪い、という覚悟が必要なんです。

 

 

今回の事故も、一見、トラックの運転手には非がない様に思えます。そう考える人が多いでしょう。ヤフーニュースのコメントを見ても、圧倒的にトラックの運転手をかばって、子どもやその親を非難するコメントが多かったです。

 

 

「これはトラックは悪くない」とか「バカ親が子どもを見ていないのが悪い」とか「小学五年にもなってそれくらい分からないのか」とか「子どもがいるなんて、トラックの運転手にわかるわけがない」とか。

 

 

トラックを擁護する意見がほとんで、トラックを非難する声は、おそらく一件もなかったと思います。それもそのはず、私にもこの事故は予見できないと思います。私が運転手でも、信号で停止中に子どもが下にいるかもしれない、なんて思わないでしょう。誰が運転手でもこの場合、事故を回避することはできなかったのだと思います。

 

 

だけど、「だからトラックの運転手は悪くないのか?」という疑問を投げかけたいんです。もともと車に死角があることなんて分かりきっていることじゃないですか。運転席から見えない部分があることなんて、分かりきっていることじゃないですか。そこに子どもやらが入り込んだ場合、気づくことができないことなんて、分かりきっちりことなじゃないですか。

 

 

それを承知で車を運転しているんでしょう? 死角があることがわかって車に乗っているんでしょう? 運転中に死角に子どもが入り込んだ場合、その子どもを引くかもしれないことなんて分かって車に乗っているんでしょう?

 

 

もし「そんなことまで面倒見きれるか!」と思うんであれば、覚悟が足りないんです。運転するための覚悟が足りないんです。「そんなことまで想像できない!」というのであれば、都合の悪いことを見て見ぬ振りをしているだけなんです。

 

 

車に死角があること。車の死角とは、人を死なせる可能性がある部分のこと。そこを分かって運転していること。車を運転していれば、人を死なせる可能性が十分にあること。その事実を知っていながら、知らないふりをして運転しているんです。

 

 

やはり覚悟が足りないんです。現実を見る覚悟が足りないんです。都合の悪いことには目を伏せて、車の便利さとか、格好よさとか、そんな具体的なものに引かれているだけなんです。非常に浅い考えとしか言いようがありません。

 

 

もう一度よく、考え直した方がいい。自分に運転する資格があるのかどうか。運転するだけの資格が自分に備わっているのかどうか。運転に伴う、理不尽とも思える事実を受け入れるだけの器が自分にあるのかどうか。人を死なせる可能性を十分に考えて、それでも車を運転しなければならないのかどうか。

 

 

世の中には、見て見ぬ振りをしている人間が多すぎます。車の便利さに目を向けて、車の格好よさに心を奪われて、そんな表面的なものにとらわれて車を運転している人が多いんです。ボディがあって、エンジンがあって、運転シートがあって、ハンドルがあって。そんな表面的な格好よさに引かれて運転していては、覚悟が足りないとみなされても仕方がないでしょう。

 

 

車の本質とは、そんな表面的なものじゃないはずです。もっとモヤモヤした危険性です。世の中にとっての悪害、そんなものに、私は車の本質を感じるんです。

 

 

トラックが赤信号で停止していました。近くで遊んでいた男の子のボールがトラックの下に入り込んで、それを追って男の子もトラックの下に潜り込みました。トラックの運転手は、トラックの下に男の子が潜り込んだことに気づきません。信号が変わってトラックが進みました。

 

 

分かりようもないんです。トラックの運転手には、この事故を予見しようがないんです。トラックの死角は広いです。普通乗用車よりも見えない部分が広いはずです。大きい車であれば、見えない部分が出てくるのは当然です。

 

 

信号待ちで子どもがトラックの下にいるなんて想像もしません。「信号が赤から青に変わったら進もう」それしか考えていないでしょう。仕事中であればなおさらです。交通事故は常に予想していても、まさか下に子どもが入るまでは予想しないでしょう。右から車が来ないか、左から車が来ないか。予想しているとすれば、そんなところでしょう。

 

 

それでも、それでも、実際に事故があれば、トラックの責任なんです。信号停止中に男の子が車体の下に入ってしまえば、トラックの責任なんです。男の子は悪くありません。死角があることが分かって運転していた運転手の責任。人を殺す可能性を知りながら車で仕事をさせていた会社の責任。人を殺す可能性を分かっていながら、車を擁護する社会の責任なんです。

 

 

もしこの事故に対して「車は悪くない」とか「男の子の方が悪い」なんて思っているようであれば、それは覚悟が足りない、といことです。現実を見ていないのです。だって、死角があることなんて分かりきっていることなんですから。車を運転していれば、人を殺す可能性があることは分かりきっていることなんですから。

 

 

車を運転するのに必要なのは、覚悟なんです。「自分は悪くない」とか「自分に責任はない」とか「相手が悪い」なんていう事のない覚悟。人を殺す可能性を知っていて、それでもなお車を運転している、という覚悟なんです。

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