イライラしないとは、未知に飛び込めるかどうか

2019.12.13 (金)

腹が減ればご飯を食べたくなるし、疲れれば横になって眠りたくなる。何時間もパソコンの前で文章を打っていると歩きまわりたくなるし、いつも同じ場所で文章を打っていると、たまには違う場所で文書を打ちたくもなる。

 

 

「どうしようもない」ことは人間にはあるもので、いくら論理的に考えても、感情がそうであるならしょうがない。論理的にはAの道の方がいいと分かっていても、感情的にBを選んでしまうことはいくらでもあるだろう。「年齢」に対する考えや思いも、どうしようもないものなのだろう。

 

 

インターネットを見ても本を読んでもテレビを見ても、自分よりも若い人間が活躍している姿を見るのはたんだか悔しい。活躍したり、出世したり、上手くいったり。そんな事に年齢が関係ないことは分かっている。自分よりも若い人間で能力がある人、知識がある人、才能がある人、上手くいっている人、というのはたくさんいる。そんなことはいくらでもある。が、どうしても「若いのにすごい」「年下なのに羨ましい」「まだ学生なのに憧れる」という感情が出てきてしまう。おそらくこの年令に対する感情、極論してしまえば、年下に対する見下す感情というのは、人類普遍のものなのだろう。日本人に特有なのかとも思うが、そうでもないらしい。兄も弟もどちらも「ブラザー」と一括にする英語圏の人でさえ、やはり若い人間が人生で成功する様を見ると、年配の人は羨ましく感じるようだ。

 

 

イライラはよくない、できれば叱ったり怒ったりしないで子どもと生活したい。とは思うが、それでも自分が理解できないことをされると、イライラしたり、「わかっていない相手に教えてやろう」という感情がでてくる。この、イライラする感情も、「わかっていない相手に教えてやろう」は一見違うことのように思えるかもしれないが、根底にあるものは同じである。相手を自分に合わせようとしているのだ。「間違っていないのは自分で、間違っているのは相手の方だ」という考えである。

 

 

これが顕著にあらわれているのが、「老害」と言われるものだろう。年をとると、頭が固くなる。それまで積み上げてきた経験が押しつぶされてしまうのだろう。寿司のようなものだ。ギュッと手の中で固めるから、米どうしがくっつくのだ。一つ一つの米の粒が、くっついてシャリになるのだ。人の経験だって、一つ一つはそんなに固いものではない。どれだって不安定で、固まったものなどない。根拠も乏しく、グラグラしているものであるはずだ。それが、年令を重ねる中で、ギュッと押しつぶさていくのだろう。年齢を重ねるたびに、経験と言う名の偏見を重ねるたびに。野菜が漬物石で上から押しつぶされるように、押しつぶされて固まっていくのだろう。

 

 

で、いつのまにか、固まった状態が当たり前のように思えてくる。昨日や今日、出来上がったものが、あたかも昔からそうであるかのように思えてくる。水は買うことが当たり前だし、スマートフォンはポケットにあるのが当然だし。年下は年上に敬意をはらうのが常識だし、年上は年下よりも立場が高いのが常識だし。そんな風に世界を見てしまうのだ。

 

 

この、偏見とも言える常識を崩すには、未知のものに飛び込む事が必要である。物事には見えていない部分があることを、意識して思うようにすることが大切なのである。「物事に裏表があることなんて、初めからわかっているよ」と思うかもしれない。が、そうは言っても我々は人間である。どうしても現実的な、具体的な、「見えている部分」のみを世界の全てだと思ってしまう。非現実的で、抽象的で、「見えていない部分」は、初めから無いものだと思ってしまう、というバイアスにかかっているのだ。

 

 

意識して、オモテの反対側には裏があることを頭の片隅において置かなければならない。自分にはこう見えているけれど、相手には別の物が見えているのかもしれないのだ。大人である自分には、これまでの経験があり、世界を正しく認識しているように感じてしまう。自分とは違うことをいっている子どもの方が間違えている。世界を正しく認識していない、と思ってしまう。が、そうではないのだ。大事なのは、視点が違えば、たとえ同じものを見ていたとしても、違う姿で見えている可能性がある、ということを認識しておくことなのだ。

 

 

宿題一つとってもそうだ。親としては、毎日の積み重ねが勉強には大切だし、であれば宿題は毎日すべきだ。人生は短い。あっという間に社会に出なければならない日がやってくる。それまでに知識という名の装備を頭の中にそろえなければならない。なんて思うだろう。大人にすれば、子どもは遊んでいる暇など無い。のだが、これも時間とか、人生に対するスタンス違いでしかないのだ。子どもの視点にたてば、同じ宿題、勉強、時間を見ていても、もっと違う見方で見ているのだ。それは、決して「どっちがいい」という二者択一で語られるものではなく、「赤がいいか青がいいか」「山がいいか海がいいか」のように、スタンスの違い、価値観の違い、考え方のちがいでしかない。「どっちでもいい」し、自分の考えが唯一の考えだと思っているのであれば、それが一番の間違いなのだ。

 

 

 

 

 


 

 

 

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ようやくできました。「妄想スナイパー理論」です。タイトルは「インパクトがある方が人目につくかな」と思って、こんなタイトルにしていますが、中身は「犯罪と非行をなくして、思いやりを育む方法」になります。

 

思いやりってけっこう、掴みどころのないものだと思うんですよ。昔から「思いやりを持ちなさい」とか「思いやりが大事です」なんて周りから言われることは多いと思いますが、「それって何なの?」と聞かれた場合や、「それってどういうこと?」と深く知ろうとした場合、それと「どうやって持つことができるの?」となった場合に、うまく答えられないと思うんです。

 

そこで、一つの具体案として、「スナイパーのようなものだと」というのを示したいと思います。スナイパーとは、遠くから銃で相手を狙う、狙撃です。思いやりとは、スナイパーのようなものなのです。もちろん、思いやりっていうのは頭の中のことなので、実際に銃なり狙撃なりはしませんが、遠くから狙うすスナイパーと思いやりっていうのは、似ています。

 

スナイパーと思いやりはどうして似ているのか。スナイパーと思いやりの間の共通点とは何なのか。スナイパーと思いやが似ているのだとしたら、思いやりを育むにはどうすればいいのか。そんなことを、この小冊子には載せてみました。35,222文字です。目次はこちらで公開しています。

 

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