他人の怒りほどみっともないものはない。怒りを抑えるには、他人を眺めることだ
カフェに座って本を読んでいるのだけれど、さっきから反対側の席に座っている親子の声が耳から離れない。見たところ、小学一年生くらいの男の子を席の反対側に座らせて、手でテーブルをトントンと叩いたり、鉛筆を机に放ったりしている。
どうやら、お父さんが息子に勉強を教えているらしい。「この問題は……」とか「この答えになるのは……」なんてお父さんの話し声が聞こえる。ただし、様子があんまりよくない。明らかにお父さんの声には不機嫌が混じっている。
よくよく聞くと、お父さんの話す内容には刺々しさが入り混じっている。「どうせこっちじゃないからと考えて、この答えを選んだんだろう」とか「こんな答えを選ぶなんてバカだなあ」とか、子どもを避難する声が聞こえてくる。
「カフェに来てまでこんな声を聞くのは嫌だなあ」と思っていると、「次はこの問題やってみてください」なんて嫌らしく敬語を使ってお父さんが子どもに問題を説かせようとしている。どうやらまだまだ勉強は続くらしい。わざわざ子どもに対して敬語を使っている様子にもイライラ感が見て取れる。
こんなイライラの混じった声を聞きにカフェに入ったわけではないし、子どもにとっても害悪でしか無いだろうと思うので、「早く終わればいいのに」と思う。
「子どもはどんな様子でこのパワハラ授業を受けているのか」と、思い切って振り向いてみたけれど、子どもは向こう側を向いているので、表情までは見えない。子どもの様子から想像するに、勉強には飽きている様子が見てとれる。泣きじゃくっている様ではないので、ひとまず安心か。
かと言って、早くいなくなってほしい気持ちは変わらない。せっかくコラムを書こうと思ってカフェに入ったのに、これでは集中できない。集中しようとするとお父さんの苛立つ声が僕の耳に入ってくるので、パソコンを打とうと思っていた指がなかなか進まない。
「早く帰れ」とは思うのだけれど、「それでは子どもは救えないのではないか」とも思う。子どもの虐待というのは、なかなか表沙汰にならない。それもそのはず、周囲から隔絶された家の中で行われているからだ。
まるでアマゾンの森の中で暮らし、現代文明と接触をまだしていないような部族のようである。どちらも自分たちのコミュニティの中の文化を唯一の文化、あるいは唯一正しい文化だと勘違いしているのだ。
僕はなおも、お父さんが勉強が思うようにできない息子への苛立ちを露わにしながら進めている勉強の声を聞きながら、こんなことも思う。「自分が盲目的になっていることを、どうにかしてお父さんに知らせてやりたいな」と。
どうせこのまま帰っても、お父さんの息子へのキツイ指導は続くだろう。「こんな問題も解けないなんて、お前はバカなの?」などと言って、「バカ」という言葉も頻繁に使っているし、お父さんの指導が正しいとは思えない。この指導も、はじめは子どもへの親切心からやり始めたことかもしれないけど、どこかで道を間違えて進んでしまっている。
自分の子どもに勉強を教えようとすると、よくあり得ることなのだけれど、イライラをぶつけるだけになってしまっている。子どもが自分よりも、語彙力や表現力がないのを良いことに、むかつきをぶつけるだけになってしまっている。
これは良くない。どうにかしてお父さんの軌道を変えたい。自分の程度の自覚を持ってもらいたい。
というわけで、注意してきた。相手のテーブルに歩いていって、直接に「お父さん、ちょっと押さえて」と言ってみた。何かしら反発を含んだ対応をされるかなと思ったけれど、意外とそんなこともなかった。
相手から帰ってきた返事は「ああ、すいません」だった。もう少し何か言おうかとも思ったけれどやめた。僕も最後までこの子どもを見られるわけじゃないし、お父さんの「申し訳ない」という気持ちを汲んで、それ以上はなにも言わなかった。
ヤンキーぶったような威勢のいいお父さんを想像していたけれど、直接会うと違っていた。腰の低いお父さんだった。もしかしたらあの人も悩んでいるのかもしれない。「自分の子どもはどうして成績がかんばしくないんだ」と。その上で、「自分のようになってほしくない」と人生にあらがっている存在なのかもしれない。
怒りは何事にもましてだしてはいけない、破壊的な衝動だと思っている。怒りを出してしまうと帳消しになってしまうのだ。せっかく築き上げた信頼という建築が崩壊してしまう。せっかく長い時間とエネルギーをかけて信頼の関係をつくったとしても、言葉に怒りを混ぜただけで、それまでの信頼がなかったことになってしまう。
こんなカフェでの様子を顧みて思うに、「怒りを抑えるにはどうすればいいのか」の教訓が得られる。
他人を見ることだ。他人の怒るみっともない姿を見れば、「自分もこんなにみっともないのか」とか「怒りとはこんなにも見苦しいものなのか」と感じることができる。怒りを一歩引いて冷静にながめることができる。
自分で怒っていると、その怒りには正当性があるように感じる。「ここで怒るのはしょうがない」「この子を成長させるには怒ることも必要だし、今がその時だ」なんてもっともらしい理屈をつけてしまう。
けれど、感情とは、主観的ではなく客観的にみて初めて正統な評価を与えられる。でもって他人が怒っている様子を見て心底「もっと怒ったほうが良い」なんて思える人はいないだろう。つまり、怒りという感情には、自分で思っているほど正当性はないのだ。怒っているときに感じる自分への「怒るのも相手のためだ」という考えは、自己陶酔による虚構でしかない。
怒りを鎮める方法として、他人を見ることをおすすめしたい。他人が怒っている姿を見れば、その近視眼的な態度に、多くの人がみっともなさを感じるだろう。
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