他人を蹴落として自分が助かるってどうなの? 緊急避難をもっとも美しく見せる方法〜カルネアデスの舟板
「『カルネアデスの板』というのがある。カルネアデスは西暦紀元前二世紀頃のギリシャ哲学者である。大海で船が難破した場合に、一枚の板にしがみついている一人の人間を押しのけて溺死させ、自分を救うのは正しいかという問題を提出し、身を殺して他人を助けるのは正しいかも知れないが、自分の命を放置して他人の命にかかずらうのは愚であるとした。……」
—『カルネアデスの舟板 (角川文庫)』松本 清張著
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時代は昭和30年代、この本の主人公は大学の歴史教授である玖村。
彼は、時代の波にうまく乗った人である。自身が進歩的な歴史感をもっており、時代も歴史に進歩的な視座を求めた。彼の授業は学生で埋まり、講演に向かえば席が満席状態。著書も多数発行。特に歴史の教科書や参考書を書いており、その印税は大学教授としての収入を大幅に上回る。彼は金、地位、名声を手に入れ、住宅や異性など贅沢な暮らしをしている。
彼と同じ大学には年上の大鶴という教授がおり、大鶴は玖村の恩師である。大鶴は一旦、大学から退いたものの、玖村のはからいで再び大学教授の地位を手に入れた。玖村と同じくらいの金や名声も手に入れようとして、こちらも勢いに乗っている。
物語が中盤を過ぎた辺り、玖村と大鶴にとって追い風だった時代の波が、突然に向かい風に変わる。進歩的な思想をもつ学者を、学会から閉め出そうとする動きが出てきたのだ。
玖村は出版社から、教科書や参考書の執筆を断られてしまい、窮地に立たされる。というのも、彼は今の生活を手放したくなかったからだ。豪華な家に住み、多くの本を蔵書し、女を侍らせる今の暮らしを支えるのは執筆の印税である。
教科書や参考書を書き、その印税によって、今の思いのまま暮らせる生活が成り立っている。進歩的な思想の学者を追い出そうとする動きを甘んじて受け入れていては彼も大鶴も、ともに立ち行かなくなってしまう。
そこで彼は考えた。「自分だけは助かろう」と。幸い、彼は進歩主義者としてのブラックリストにギリギリ載っていない。うまく立ち回れば、進歩主義者で無いことを学会にアピールできる。そうすればまた執筆活動を再開できる。
大鶴と2人ではダメで、それでは動きが大きくなりすぎる。目立ってしまう。うまく立ち回るには、彼一人で動かなければならないのだ。
玖村と大鶴の2人は大船に乗っていたが、突然の風向き変更により、大海でナンパしてしまう。彼らはギリギリ、板切れ一枚に2人でしがみついている。だがハッキリしていることが1つだけあって、それは「このままでは2人とも助からない」こと。2人で沈むか、それともどちらかだけが沈むか。
この本は、日常の中にうまく緊急避難という枠組みを設定したストーリーになっている。「緊急避難」という言葉を使って、普段ぶつかり得る問題の論点をじょうずに浮かびかがらせている。
2人が溺れそうな時に、相手を蹴落として自分だけ助かるってのはどうなの? そんな緊急避難にまつわる根本の問題を、具体例をもって問うている内容である。
基本的に緊急避難にはクリアすべき4つのハードルがある。
・現在の危機
・自己または他人の生命・身体・自由・財産を守るため
・やむを得ずにした行為
・緊急避難で守られる利益が、侵害される利益より大きいこと
の4つだ。
「現在の危機」とは、今現在、危機が迫ってきていること。もう過ぎ去ってしまった危機や、これから迫りくるであろう危機に対して緊急避難は認められない。
「自己または他人の生命・身体・自由・財産を守るため」とは、利益を守るための危険回避という認識があること。偶然相手を蹴落として、それが結果的に利益を守る形になったのでは、緊急避難とは言えない。
「やむを得ずにした行為」とは、そうするより他なかった、ということ。他に方法があったにもかかわらずそちらの方法を取らなかったのでは、緊急避難は認められない。
「緊急避難で守られる利益が、侵害される利益より大きいこと」とは、過剰なことをしてはいけないということ。たとえば走ってくる車を避けるために、少しだけ敷地内に入れば済むものを、わざわざ敷地内の奥深くにまで入っていって敷地を荒らしたような場合は認められない。
危機が迫っている時に相手を蹴落として自分が助かるってのはどうなの? それが緊急避難が抱える本質的な問いである。
正当防衛との違いを考えると、もう少し深く緊急避難の問題点がわかる。正当防衛は、迫りくる危機に対して損害を与える。それに対して緊急避難は、迫りくる危機とは関係のない第三者に損害を与えることになる。損害を与えられる方からしたら、トバッチリもいいところである。
しかもそのトバッチリを、我が身可愛さにワザとしようとしているのが緊急避難なので、問いは余計に難しい。認識がなく、危機を避けた結果第三者に損害を与えたのなら、その第三者も「仕方ないね」と言えるかもしれない。けれど緊急避難の場合は、「ワザと」でなければならない。「自分が助かるために」という理由はあれど、そのためにワザと他人に損害を与えるのだ。
「カルネアデスの舟板」の主人公・玖村のやった行動は、おそらく緊急避難としては認められない。「他に方法が無かったのか」と問われれば「無かった」とは言えない。それに侵害される損益が、守られるべき損益の範囲を越えている。過剰な事をやってしまっているのだ。
それなのに、この本のタイトルが「カルネアデスの舟板」なのはどうしてなのか。緊急避難が認められない題材を扱っているのに、どうしてタイトルに「カルネアデスの舟板」とあるのか。
おそらくそれは、認められないケースを題材として持ってきた方がより緊急避難の本質的問いをあからさまにできる、と著者が考えたからだろう。これには、人間社会が抱える闇、それと美しさがあると思っている。
たとえば戦力外通告を受けたプロ野球選手の、その後の苦悩を描くテレビ番組が面白い。これは、プロで華々しく活躍する選手よりも、ふるい落とされた人たちの方が、見ていて気になるからだ。それまでプロ野球という最高峰で活躍し、あるいは活躍を期待され、それでも去らなければならない。本人のプライド、養っている家族への責任、生活費という現実。そこにあるのは、闇であり、美しさである。
「『どん底に落とされる』という闇にこそ人間の本心が見える」という意味で美しさがあるのだ。これは警察の仕事にも言えるかもしれない。
闇であり美しさ。
警察の仕事は、感情むき出しの人間と相対することである。疑いを掛けられ、逮捕され、罪を宣告され、善悪の判断を言い渡される。そんな人たちと相対する警察の仕事は、「どん底に落とされる」という闇の部分をたくさん見られるが、「そんな感情むき出しの状況が人間の本心なんだ」と考えると、なんとも美しいものにも思えてくる。
断末魔が美しいようなもの。アニメの戦闘シーンで、飛び散る血しぶきに綺羅びやかさを演出させるようなもの。もろくて儚い存在の子どもに尊さを感じるようなもの。
危機が迫っている時に相手を蹴落として自分が助かるのは良いことなの? それを考えさせるために、ワザと緊急避難にならないケースを引用して、緊急避難の闇の深さ・問題の深さを際立たせていると、僕は思う。「カルネアデスの舟板」は、緊急避難の美しさをもっとも効果的に描写している内容なのだ。
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