「常識にとらわれるな」とは、何事にも怒らないことを意味する

2020.08.31 (月)

「常識に従うな」とか「常識にとらわれるな」という言葉はよく聞くけれど、これを実践できている人はなかなかいない。というのも、いくら「自分に常識は通用しない」とは言っていても、そういう人に限って、いざ常識はずれの自体が勃発すると、それ批判するからだ。「ありえないだろ」とか「間違っているだろ」と言って。

 

 

「常識に従うな」とか「常識にとらわれるな」という言葉は聞こえが良い。この言葉を使っていれば、どこか知的な感じがする。「自分は常識にとらわれない人間だ」なんて言っていると、どこか周りの人よりも視線が上にあるような気がする。「周りの人が誰も気づいていないことに自分は気づいている」あるいは「他の皆んなは見えていないことを自分は見えている」ような気がするのではないか。

 

 

けれど、「常識に従うな」とか「常識にとらわれるな」と言っている人に限って、周りに対して怒っているような気がする。怒っていないまでも何事か自分の意見を通そうとしている。

 

 

これは矛盾しているのではないか。だって、「常識に従うな」とか「常識にとらわれるな」と言っている自分が常識に従っているし、常識にとらわれているからである。

 

 

本来、常識に従わないでいたり、常識にとらわれていなければ、怒る必要などないのではないか。だって、「怒る」という感情は、常識から外れた自体が発生した時に、その逸脱を許せないときの感情だからだ。

 

 

たとえば「仕事はできて当たり前」と思っている人の目の前に仕事ができない人が表れたとする。「仕事はできて当たり前」と思っている人にとって、目の前の仕事ができない人は、常識はずれである。こんなときは、「仕事はできて当たり前」と思っている人が怒るのは理解できる。

 

 

けれど、周りに対しいて「常識に従うな」とか「常識にとらわれるな」と言ってる人が怒るのはどうなのか。「『常識にとらわれないこと』がいいこと」あるいは「『常識に従わないこと』がいいこと」という常識に囚われてしまっているのではないか。

 

 

「常識に従うな」とか「常識にとらわれるな」なんて言っている自分が、もはやそういう常識にとらわれていることに気づいていないのだ。

 

 

僕はつねづね思うのだけれど、「常識に従わないこと」あるいは「常識にとらわれないこと」には忍耐が必要だと思っている。「『常識に従うな』とか『常識にとらわれるな』なんて言っている自分が、実は常識にとらわれているのではないか?」という懐疑を自分に向けなければならないからである。

 

 

「常識に従うな」とか「常識にとらわれるな」ということを実践するのは、簡単なことではない。「常識に従わない方がいいよな」とか「常識にとらわれない方がいいよな」と考えた瞬間、自分の中で一つの常識ができあがるからだ。それは、「常識に従うな」という常識であり、「常識にとらわれるな」という常識である。

 

 

「常識に従わない」あるいは「常識にとらわれない」ことを究極までに実践するとどうなるか。たとえば、犯罪の被害にあっても「しょうがない」と思えるような精神状態にならなくてはならない。「人として許せないこと」が起こったとしても、「そんなこともあるよね」とのほほんとしていなければならないと思う。

 

 

自分の親が殺されたり、自分の恋人が陵辱されたり、自分の子どもが拷問にあったり。そんなことをされても、怒らないで気にしないでいる。それが、「常識に従わない精神」であり、「常識にとらわれない精神」なのだ。

 

 

自分の親が殺されたり、自分の恋人が陵辱されたり、自分の子どもが拷問にあったりされて怒っているような人は、「常識に従っている人」であり、「常識にとらわれている人」だ。

 

 

「親が殺されて怒らない人はいない」という常識、「自分の恋人が陵辱されたら怒って当たり前」という常識、「自分の子どもが拷問にあったら怒るのが当然」という常識にとらわれているからだ。

 

 

「常識に従うな」だの「常識にとらわれるな」なんて言っている人に言いたい。「常識に従うな」だの「常識にとらわれるな」なんて言っている人はおそらく、「個性を大事に」ということを言いたいのであろうが、「個性」とは自分の予想や期待を裏切るところからやってくる。その予想や期待から離れていれば離れているほど、個性としての色合いは強くなる。

 

 

つまり、個性的とは、こちらが怒りたくなるほどのもの、こちらが呆れて何も言えなくなるほどのものを言うのだ。

 

 

「常識に従うな」だの「常識にとらわれるな」を実践すると、人に対して何かを要求することができなくなる。「この人は間違っているな」とか「この人は違うな」という他人に対する違和感が少しでも芽生えたなら、それは自分が常識に従っていたり、常識にとらわれていることを意味するからだ。

 

 

個性を尊重するとは、自分が「人間的に間違っていること」をされても許すことを意味する。そんなことをされても、黙ってしたがうこと、耐えること。それが「常識に従わないこと」であり「常識にとらわれないこと」になる。

 

 


 

 

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