粘土やブロック遊びと同じだ。コラムや文章を書くことの楽しさ
「具体と抽象」
これは僕が最も好きな言葉の1つだ。細谷功さんの「具体と抽象」という本があって、あの本を読んで以来、何事も「具体と抽象」というフィルターをとおして見られるようになった。何事にも具体と抽象という軸が当てはまることを知った。
具体とはわかりやすいものだ。はっきりとしていて、細かくて。
それに対して抽象とはわかりにくいものだ。もやもやしていて、大雑把で。
注意したいのは、具体と抽象とは、一本の線ではっきりと分けられるものではないということ。「コレは具体で、こっちは抽象」とか「ここまでは具体で、ここから先は抽象」という風に決められているものではない。何が具体で何が抽象か、というのは相対的なものだ。絶対的なものではない。
例えば昨日、ぼくは昼食に「おにぎり」を食べたが、「おにぎり」とは具体だろうか、抽象だろうか。言おうと思えば、もっと細かく具体的に僕が食べた、そのおにぎりを表現することもできる。海苔が巻かれていて、値段は120円で、中には梅干しが入っていて、丸い形で、ローソン〇〇店で売られていて‥。どこまでも細かく言う余地は残されているので、「おにぎり」という言葉は「抽象的だ」とも言える。
けれど同時に、言おうと思えばもっと曖昧に抽象的に言うこともできる。「僕が食べたのは日本食だ」でもいいし、「僕が食べたのは白米だ」でもいいし、「僕が食べたのはローソンの商品だ」でもいい。言おうと思えば、もっとどこまでも抽象的に言うこともできる。まだまだ抽象的に表現する余地が残されているのであれば、「おにぎり」という言葉は「具体的だ」とも言える。
このように、「おにぎり」という言葉1つとってみても、もっと具体的に表現することもできるし、もっと抽象的に表現することもできる。「具体的か、それとも抽象的か」という問題は相対的で、状況によって違うものなのだ。
この「相対的」というのは、具体と抽象を語るうえで抑えておかなければならない基本の「き」なのだけれど、他にも具体と抽象を語る上で抑えておきたい事がある。それは、具体とは簡単であるのに対し、抽象とは難しいということだ。
具体とは、はっきりとしていることである。故に想像するのが楽だし、イメージがつきやすい。仕事で「もと具体的に言ってくれ」とか「もっと具体的な数字を上げてくれ」なんて上司なんかから言われた経験がある人もいると思うけど、これは「もっと聞いている側に寄り添ってくれ」という意味でもある。
「話を聞いている側が、いまいち想像できない。イメージするのに苦労する。だからもっと具体的な表現がほしい」ということなのだ。具体とは、楽で簡単なのだ。
逆に抽象とは、曖昧なことである。モヤモヤとしていて、とりとめなく、実態を得ないようなもの。抽象画なんてのがあるが、あれは写実的でないものだ。絵を描く際に、見たまんま、写実的に描けば、鑑賞する側としては「何を描いたのか」がわかる。抽象画だと、何を描いたものなのか、意図が分かりづらい。わざわざ頭を回してエネルギーを使って、想像する必要がある。抽象とは難しいので、つかもうと思ったら労を要するのだ。
具体とは簡単で、抽象とは難しい。だから人は抽象から具体に流れる。抽象的なものを遠ざけ、より具体的なものを求める。仕事では具体的な資料を求め、本を読むときなども、抽象的な表現がされている本よりも、具体的な表現で、具体的に役立つことがイメージされる本を好む。
決して「具体が良くて、抽象が悪い」という意味ではない。この2つは基準でしかなく、そこに善悪はない。何事に対しても「具体的に」と要求するのを人を見たり聞いたりすると、「具体と抽象がわかっていないのではないか」「抽象の良さがわかっていないのではないか」とすら僕は思う。
そんな僕でも、それでも具体的にすることでの効能はわかる。抽象的なものを具体的にするとき、そこには一種の爽快感がある。具体とはわかりやすくハッキリとしていること。抽象とはわかりにくく曖昧なこと。それゆえに人は抽象を苦手とし、具体を好む。抽象的なものが具体的になると、人は快を感じるのだ。
ゲームなんかのステージクリアに伴うエクスタシーも、抽象が具体になって得られるものだ。スーパーマリオでもなんでもいいのだが、それまでゲームを進めてはいても、「自分がどこまで進めているか」という進み具合を客観的に測ってくれるものがなくてはモヤモヤしたままだ。ステージクリアという具体的な基準を示されて、「やった!」と気持ちよさを感じるのだ。
それから創作の楽しさも、抽象から具体という流れによるものだ。男の子であれば、子どもの頃に粘土やブロック、それからプラモデルに夢中になった記憶はあるだろう。あれは自分の想像が具体的な形になっていくことを楽しむ遊びだと思っている。
自分の頭の中に、抽象的に存在している「こういうものを作りたい」「こんなものがあったらいいな」が、粘土やブロックを媒介にして、具体的に形をなしていくのだ。目で見える形で目の前に表れたとき、つまり作品が完成したときに、そこは達成感や爽快感が表れる。
僕が文章を毎日書いて、コラムを日々更新しているのも、子どもの頃の粘土やブロック遊びと同じようなものだ。モヤモヤしたものを、目で見えるものに作り上げている過程であって、抽象から具体への流れである。一つ一つ、一文字一文字、一段一段と作り上げていくごとに快を得られる。
頭の中でそれまでうまくつかめていなかったものが、ハッキリと仕分けされ、色と形をなしていく。「自分はこう思っていたのか」「自分はこう感じていたのか」「自分はこう考えていたのか」という気づきが得られる。この過程で得られる気持ちい良さは、具体から抽象の流れの中で得られる快だ。
文章を書くことは気持ちがいい。それは頭の中の抽象が具体へと、輪郭を伴って表れてくるからだ。文章を書くことは、かっこうのエクスタシーなのだ。
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