モンテッソーリ教育やシュタイナー教育はもう古い?

2019.12.26 (木)

子どもを持つ親なら、自分の子どもに主体性を持たせたいと考えるのは当然なのかもしれない。僕もそうだった。

 

 

自分の意志で、自分の人生を切り拓く。自分がやりたいと思ったことをやってこそ、やりたいことができて、幸福感もあがる。そんな風に考えるのだ。で、子どもの人生を考えるわけだ。

 

 

「どうすれば子どもに主体性を身に着けさせることだできるだろう。子どもは当然に、いずれ学校に入学する。その前に保育園や幼稚園に登園することになる。社会の中に身を投じることになる。そんなときに、先生から『あれをやりなさい』とか『これをやりなさい』と言われるようになることは想像できるが、それで主体性なんて身につけられるのか。いいや、できるはずがない。上から言われたものを押し付けるだけは、真の主体性なんて身につかない。自分の人生を自分で決める自由と、自分の人生を自分で切り拓く主体性を身につけるため、自分たちが受けた教育とは別の教育を子どもたちには与えなければ」

 

 

で行き着く先が、モンテッソーリ教育とシュタイナー教育である。まるで必ず通る袋小路のように、迷う先に待っているのがこの2つの教育なのである。世の中のお父さんやお母さんが、この2つの教育に求めるのは、おそらく「自由と主体性」だろう。「モンテッソーリ教育を受けさせれば自由と主体性が身につくのではないか」「シュタイナー教育を受けさせれば自由と主体性がみにつくのではないか」というものだ。

 

 

「これらの教育を受けて自由と主体性が身につくのか。身についたとして、それはそんなにいいことなのか」などを判断するには、実際にこれらの教育を受けた人の意見を気いたり、携わった人から話を聞いたり、ホームページをのぞいたりといろいろな方法があるが、僕はまず「自由と主体性」というものに疑問を投げかけたい。「自由と主体性って、とっくに論破されているんじゃないですか?」ということだ。

 

 

「自由と主体性を!」という風潮は、20世紀初頭にもあった。実存主義に分類されるフランスの哲学者、ジャン・ポール・サルトルが「『人間』になろう」とか「アンガージュマンこそが人生において大事なのだ」などと言っていたからだ。実存主義とは、「個人としての自分は人生をどうやっていきたらいいのか」を考える哲学だ。それまであった「世界の心理って何?」とか「人間って合理的なの?」を考える哲学は、あまりにも個人に関係がなさすぎるように思われたのだ。世界の真理が何かわかったところで、人間が本当に合理的なのかどうかがわかったところで、個人の人生には関係がないからだ。そこで広がったのが、実存主義である。「我々個人はどんな生き方をすればいいのか」を多くの知識人が考えたのだ。サルトルは、そんな実存主義の最終兵器だった。いまでいう、ホリエモンとか、ZOZOの前澤元社長なんかのイメージだろう。多くの若者が、サルトルに憧れた。「自由と主体性」が人生において大事なものだと、多くの人が考えたのだ。

 

 

そこに降って湧いたのが、構造主義である。構造主義が、主体性を重んじる実存主義を切ってしまったのだ。「主体性・主体性っていうけれど、本当にそんなものあるんですか? 他にもあなたと同じような考えを持ったり、おなじような行動をしたりしている人はいるけれど、本当にあなたは自分自身の主体性で生きているのですか? 自分自身で生きているように思いながら、実は社会の見えない構造に支配されているだけじゃないですか?」というものだ。

 

 

しかもこの時代、精神学者のジクムント・フロイトが、無意識を発見してしまった。現代日本に住んでいる僕らは当たり前のように「無意識のうちにやっちゃった」などと「無意識」という言葉を使うが、実はこの無意識とは、結構新しい最近出てきた考え方なのだ。それまで、自分の中にある自分の意識外のものである「無意識」の存在など、誰も考えなかったのだ。つまり、「本当に主体性をもって、自分で人生を切り開いているつもりなの? 自分で選んで自分でやっている用に思えて、実はあなたの中の無意識が選んでやっていることなんじゃないですか? 社会の見えない構造がそうさせているだけなんじゃないの?」ということだ。

 

 

ここで、自由と主体性を重んじる実存主義は完全に意気消沈してしまう。構造主義の指摘にバッサリと切られて、ぐうの音も出なかったのだ。だから何が言いたいのかというと、教育に対してモンテッソーリとかシュタイナーとか、あんまり求めなくても良いんじゃない? と思うのだ。

 

 

そうでなくとも、日本の教育基本法を覗いてみると、教育目標の第二条第二項に「個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと」とある。個人の主体性については、日本の教育でも考えられているのだ。人生で幸福感を得られるかどうかは、実は自由や主体性いがのところで決まるのかもしれない。そう考えると、視野も広がるし、選択肢も広がるのではないだろうか。モンテッソーリ教育やシュタイナー教育に囚われること無く、もう一歩引いた視点から、子どもの教育を考えることができるのではないだろうか。

 

 

僕は、子どもの教育に必要なのは、自由や主体性よりも視野の広さだと考えている。これについては、また別のコラムで話せればと考えている。

 

 

 

 


 

 

 

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