怒りなんて自分を棚上げしているようなもんだから滑稽なだけだよ

2020.03.24 (火)

犯罪と非行は怒りから生まれる。

 

 

社会から犯罪と非行をなくすには、怒りを取り除き、その代わりに寛容的にならなければならない。怒りを排除して寛容的な社会をつくるには、各家庭や各個人が寛容的にならなければならない。

 

 

僕が思うに、怒りを寛容に変えるには、考え方一つである。ものの見方一つで、短気な性格ではなくなり、ちょっとのことでも動じないおおらかな性格が身につく。セネカ著「怒りについて」の第2巻28章を参考に、怒りがいかに滑稽か、怒ることがどれだけアホらしいか、見ていくことにする。

 

 

 

 

まず最初にわれわれは、こう確信しようではないか。われわれのうち、罪のない者は一人としていない、と。実のところ、最も多くの憤りが生じるのはここからだ。「私は何も間違ったことはしていない」。「私は何もしていない」。いや、君は告白していないだけだ。われわれは、ちょっとした訓告や譴責で叱責されると憤る。だが、まさにそのとき、悪事に傲慢と頑固さを付加するという過ちを犯しているのだ。

 

みんな気づいていないと思うけれど、まず最初に気づかなきゃならないのは、悪いことをしていない人間なんて一人もいないってことなんだ。怒りってのは、悪いことをしていないことに気づいていないところから、最も多く発生するものなんだ。「自分は間違ったことをしていない」とか「自分は何もしていない」なんて言っていないか? 言っているだろう? けれど、君は本当のことを言っていないだけなんだ。真実に気がついていないだけなんだ。だって思い出してみろよ。注意されたり、罰を受けたり、叱られたり、そんなことをされて腹が立った経験があるんじゃないか? その時なんだよ、その時。腹を立てるという悪事に加えて、それにすら気づいていないという横柄さや偏屈さもあわせ持って過ちを犯しているじゃないか。

 

 

自分はどんな法律に照らしても無実だと吹聴するとは、どういう人間なのだ。そうだとしても、法に従うから善人であるというなら、無辜とは何と狭隘なことか。

 

悪いことをしたとしても、「自分は法律違反はしていないからいいんだよ」なんて声高々に言い張るなんて、どういう人間なんだ。法律違反をしていないから善人だというのなら、無実っていうのはなんて狭い概念なんだ。

よく考えてみろよ、たとえ法律違反をしていなくても、社会的に倫理的に悪いことなんて色々あるだろう。マナー違反もそうだし、人に対する嫌がらせや悪口もそうだ。たとえ法律に違反してないとしても、悪いことなんてたくさんあるんだ。マナー違反や嫌がらせをしたり悪口を言っていながら、自分は無実で悪いことをしていないと思っているとしたら、「無実」って言葉はずいぶんと狭い意味じゃないか。

 

 

誰かがあなたのことで悪口を言ったと耳にするだろう。以前、あなたも同じ事をしなかったか、考えてみたまえ。

 

誰かが自分の悪口を言ったという噂を耳にすると、自分は腹を立てるんじゃないか? 誰かから不正をされたとすると、自分は怒り出すんじゃないか? でもよく考えてみろよ。自分だって以前、同じことをしなかったか? どうせしたことあるんだろう。誰かの悪口を言ったりして、誰かに対して不正を働いたことがあるだろう。それなのに、自分の事は棚に上げて相手に怒ったりするのか? みっともない。

 

 

われわれは他人の悪徳に目をとめるが、己の悪徳を背に負っている。

 

人がやったことっていうのは、気になるものなんだよ。人がやった自分に対する不正っていうのは、必要以上に気になるものなんだよ。だけど結局は、自分だって倫理に反する悪いことをしているものなんだ。悪人が悪人を怒ってどうする。犯罪者を犯罪者が罰してどうする。悪い人間が悪い人間を叱ってどうする。そんなのお互い様じゃないか。

 

 

われわれは、みずからを振り返って自分自身に考察を向ければ、ずっと穏健になれるだろう。「はたしてわれわれ自身も、何かこうしたことを犯しはしなかったか。こんなふうに間違わなかったか。そんなことを罰して、われわれのためになるのか」。

 

僕たち人間っていうのは、みずからを振り返って自分自身を見つめ直すことができれば、ずっと穏やかに寛容的になれるだろう。嫌なことをしてきた相手がいる時に、「自分だって、何かこうして人に対する嫌がらせをしたことはなかったか。こんな風に間違いを侵さなかったか、よく考えてみろよ。自分に対する嫌な事をしてきた相手に怒ったからって、それが自分のためになんかならないじゃないか」。

 

 

怒るってことは「不正をされた」っていう認識が引き金になる。「バカにされた」とか、「嫌がらせを受けた」とか「損害を被った」とか。けれど、そんなものは、結局は自分もしていることなんだ。いくら相手に対して「不正をするな」と自分を正当化して怒ったとしても、自分を棚に上げていることを忘れてはいけない。

 

 

以上が、「怒りについて」第2巻28章からの抜粋と現代語訳である。

 

 

「自分だって少なからず、というか同じくらい誰かに対して不正を働いて生きていることを忘れてはならない。怒ることがいかにアホらしいことか」という内容である。

 

 

各個人が「怒りがいかに滑稽か」を考えられれば、社会から犯罪や非行なんて無くなるだろうと思う。

 

 

 

 

 


 

 

 

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