言語とは、ゲームのようなものである〜はじめての言語ゲーム

2019.11.06 (水)

 

基本的に哲学の本は難しい。本書も例外ではない。「はじめての言語ゲーム」とタイトルなっていて、「はじめての……」なんて書かれていると、いかにも初心者向けで、初めて読んだ人にも容易にわかった気にさせてくれるようなもので……。なんて思うかもしれないが、とんでもない。この本を読んでも、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームがなんのことやらなんて、少しもわからない。なので、「はじめての……」というタイトルに引かれて購入ボタンを押してしまった人は、後悔も感じるかもしれない。自信喪失にもなるかもしれない「自分は初心者向けの本ですら、満足に理解できないのか……」と。まあだけど、そんなに凹むことはないのではないか。ちょっとやそっとでは理解できないのが哲学だし、そんなに簡単に理解できては、歴代の著名な哲学者の名が地に落ちてしまう。ちょっとやそっとでは理解できないのが哲学だし、入門書ですら難しいのが哲学なのだ。

 

 

だが同時に、他人が本当にわかっているかどうかなんて、それもわからないものなのだ。自分が他人の痛みを本当の意味で理解できないように、自分が他人のかゆみを本当の意味で理解できないように、自分が他人の苦労を人生を本当の意味でりかいできないように、である。他人が哲学を理解しているか、ウィトゲンシュタインが考えたことを理解しているか、言語ゲームを理解しているかなんて、自分にはわからないものなのだ。問答して「これこれこんな感じでですよね?」「はい、ではここはこんな感じですよね?」「こっちはこんな感じですよね?」なんて言葉のやり取りをしたって、相手が何を見ているのか、相手が指しているものが自分が指しているものと合っているのか、なんてわからない。

 

 

「赤は血の色です」「青は空の色です」「黒は夜の色です」なんて言ったところで、相手は自分にとっての「赤」をイメージして「そうです。黒は夜の色です」なんて言っているかもしれない。相手にとっては黒色がすべて、私にとっての赤色に見えているとしたら、それはもう、確かめようがないものなのだ。同じように、哲学も本当に理解しているかどうかなんて、わかりっこないのだ。仮に私がココで「ウィトゲンシュタインはこんな事を考えていた」とズラズラ書いたところで、それを誰が「そのとおり、合っている」とか「いいや、お前は間違っている」などと判定ができよう。判定をしようとした人でさえ、間違えている可能性がある。ではその判定をしようとした人が合っているかどうかを、まずは判定して。さらには判定しようとした人を判定しようとした人が合っているかどうかを判定して……。なんて、永遠の繰り返しが予想される。

 

 

前提が合っているかどうかを確かめようとして無限ループにハマるようなものだ。一応、「ウィトゲンシュタインの言語ゲームってこんなこと……?」というのはもつことができたが、それが合っているかどうかは、日本哲学協会(?)のお偉いさんにもわからないし、マイケル・サンデルにもわからないし、もし仮に直接聞くことができたとしてもウィトゲンシュタイン自身にすらわからないのだ。

 

 

さてさて、言語ゲームとは、「言語とはゲームのようなものである」という意味だ。言語の意味は、所属する社会の週刊や文化によって決まる、ということなのだ。これは、子どもたちが集団で遊んでいるところをイメージして貰えればわかるのではないか、と思う。10人ほどが、ボールを蹴りあって遊んでいる。一見、サッカーをしているように見えるが、当の子どもたちが明確に「サッカーをしている」という感覚はない。「サッカーのようなものをしている」だけだ。当の子どもたちが自分たちのルールで遊んでいるのだ。時々、敵と味方が入れ替わって見えたり、明後日な方向にパスを出している用に見えるが、サッカーをしているわけではないのだから、それは構わない。だから「こっちこっち」とか「前、前!」という言葉が発せられているが、サッカーというスポーツでいうような「パスを回せ」とか「前に走れ」という意味なのではない。「こっちこっち」や「前、前!」がどんな意味なのか。それは、当の子どもたちにしかわからないのだ。「こっちこっち」や「前、前!」の言葉の意味は、当の子どもたちの文化(遊び)の中で意味が成り立っているものなのだ。

 

 

だけど、これというのは、実は子どもの遊びだけにとどまらなくて、言語というものがこういうものだと言えなくないだろうか。フェイスブックの普及で、親指を上に立てることが相手に対する「いいね」だと広く認識されているが、そんなものは最近だろう。少なくとも、私が子どもの頃には親指を上に立てるなんて、そんなキザっぽいことはなかった。子どものころのわたしに対して、親指を上に立てる動作をしたら、「バカにしてる」と捉えられるだろう。

 

 

私が「マグロ」と聞いて思い浮かべるのは、海を泳ぐマグロの他に、寿司とか、まな板の上で解体される様子とか、刺し身とか、築地市場とか、そんなところであるが、それは私が日本という文化圏で育っているからだ。外国人に対して「マグロ」といったところで、寿司や刺し身を食べる文化を持たなければ、おなじようなイメージは持たないだろう。

 

 

「マグロ」と言ったところで、それに対するイメージはそれぞれだし。親指を上に立てる動作をしたところで、それをどう捉えるかはそれぞれだし。「こっちこっち」や「前、前!」といったところで、その遊び(ゲーム)をしている仲間内でしか通用しないし。言語とは、対になる意味が明確にあるものではなく、子どもたちがオリジナルのゲームで遊んでいて、その言葉が仲間内でしか通用しないようなものなのである。

 

 

はてさて、これで合っているのかどうか。

 


 

 

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