カルロス・ゴーン氏の逃げ得は、許すべきではないのか

2020.01.06 (月)

カルロス・ゴーン氏のレバノンへの逃亡が世間を賑わせている。

 

 

プライベートジェットを使ったとか、大型楽器のケースに入って隠れていたとか、黒幕は奥さんだとか。憶測にしろ予想にしろ事実にしろ、様々な情報が世間を飛び回っている。ゴーン氏の行動に対して反対の立場をとるのが、大方の意見だろうか。さっきヤフーニュースを見ていたが、「ゴーン氏の逃げ得を許すべきではない」という記事が記載されていた。「民主主義における司法手続きを無視した行為であり、到底ゆるされるべきではない」という意見が、その記事には記載されており、これは「常識的」な意見と言えるだろう。世の中のお母さんも、学校の先生も、子どもなり児童なりに、「法律は守らなければならない」「法律は守るのが当たり前だ」と教えるのではないか。

 

 

確かに僕もそう思う。法律は守るべきだし、法律は守るのが当たり前だ。人を殺したら、そこにどんな恨みがあろうとも罪を償うべきだし、人の家に入ってお金を盗んだら、犯人がいかに貧乏な生活をしていてお金が必要だったとしてもその行為は避難されるべきだ。

 

 

だが、今回のゴーン氏のレバノンへの逃亡を、安易に「悪いことだ」と思っている人がいるのであれば、もう一度考え直したほうが良い。彼の立場というものを今一度、自分ごととして考えてみるといい。

 

 

というのも、ゴーン氏のレバノンへの逃亡を、ただ「法律違反したから罰を受けるべきだ」と考えるのは、あまりにも安直だからだ。ゴーン氏を非難する理由が、ただ「日本は法治国家だから」とか「それが法律だから」では、あまりにもデジタルすぎるのだ。法律というのは、ハッキリとした一本の線ではない。だれでも分かるように、「ココを越えたらだめだよ」「ココを越えなかったらセーフだよ」というものではない。だれもがその線を理解できるようなものではない。特に今回のゴーン氏について起訴された罪は、「特別背任の罪」と「有価証券報告書の虚偽記載の罪」である。善悪がハッキリと分かれるものではない。殺人とか、傷害とか、暴行とか、「人として明らかにやってダメ」というものではなく、「こういうルールにしましょう。その方が生活しやすいですから」というものだ。ということは、おそらくゴーン氏にも「言い分がある」ということだ。「特別背任の罪」も「有価証券報告書の虚偽記載の罪」も、殺人や傷害や暴行のような、誰でも明らかに黒と分かるような犯罪ではない。おそらくゴーン氏は、ゴーン氏独自の「これをやってもいいだろう」という正義に照らし合わせて、自分の行動を選んだのではないか。

 

 

レバノンへの逃亡も、特別背任の罪も、有価証券報告書の虚偽記載の罪も、自分自身の正義に照らし合わせて選択した結果だと思うのだ。

 

 

考えても見てほしい。誰にでもあるのではないだろうか。「法律的には間違っている。ルール違反もしている。けれど、自分ではこれが正義だと思う」という場面が。たとえば、職場の間違ったルールに背くときだ。職場というのは様々な人間によって構成され、様々な人間の思惑が絡み合う場所なので、時に「どうしてこんなルールがあるの?」「こんな決まり、まちがってない?」というものも存在する。自分ではこのルールに従わない方がいいと思うし、自分としては「『誰が考えてもこのルールはまちがっていると結論づけるだろう』と思う」のだ。だが、職場というのは、上司の意見に従うのが当然だし、それが賢く職場という社会で生き抜く方法だ。そんなときには誰でも、「自分の正義」と「自分が属する社会のルール」を天秤にかけるのだ。そのうえで、時には自分の正義を選ぶときもあるだろう。「会社のルール的にはそうかも知れませんが、自分は違うと思いました」とか「自分は上司が間違っていると思ったので従いませんでした」という場面だ。社会のルールよりも自分の正義を信じる場面というのは、誰にでもあることなのだ。

 

 

 

そんな場面では、一概にどっちがいいとか、悪いとか、そんなことは決められない。どちらが善でどちらが悪なのだ。そんな都合のいい、万人に共通する、どんな状況でも応用できるような考えはない。それぞれの場面で善悪を判断するしかないのだ。

 

 

このゴーン氏が直面した場面も、そんな自分の正義と社会のルールを天秤にかけるような場面だったのだろう。特にレバノンへの逃亡に関しては、そうしないと、自分の素直な意見すら言うことができない場面なのだ。メディアはおそらく、反ゴーン氏の意見を流すだろう。そんなメディアに触発された日本国民は、「ゴーンは悪だっのだ。検察が正しかったのだ」という方向に誘導されるだろう。自分を口にする事はできても、その真意を世間に向かって発信することはできない。できたとしても誰も信じてくれない。そんな場面は、ゴーン氏にとって、果たして「自分の素直な意見を言える」状況といえるだろうか。「ゴーン氏にも自分の考えを言う機会はあった」といえるだろうか。いいや、言えないだろう。

 

 

しかも自分の素直な意見、自分の正義を話して理解されなければ、懲役刑である。刑務所に入り、再び世の中に出てくるのは80才代になってからかもしれない。そう考えたから「レバノンへ」という行動に出たのだ。そんなゴーン氏に対して、誰が「決まりは決まりなんだから守らないと」「法治国家なんだから」と言えるだろうか。

 

 

確かにゴーン氏の行動は、法律には違反しているのだろう。が、その法律とは今回の場合、案外薄っぺらいものなのだ。誰にでも共通の、人類普遍の「悪」なのではない。スポットを当てなければ見えない所があるような、極めて曖昧なものなのだ。安易に、一概に、「法律は守らなきゃ」で語れるものではないのだ。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

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