構造主義とはズバリ、クモの巣のようなものである
構造主義とはクモの巣のようなものだ。クモの巣には、いろいろな動物が絡め取られている。名前がなんだかわからないような小さい虫から、イナゴやトンボまで。例えばクモの巣にハエ、蚊、イナゴ、トンボが絡めたれているとしよう。あなたは、その中の蚊を指差して、「あの蚊を見て」と、隣りにいいる友人に言ったとする。ところがその友人は、蚊に対してとてもうとくて、あなたがどの虫のことを言っているのか理解できない。あなたは「あの蚊! あの蚊!」と説明するが、それでもその友人は理解できない。「蚊ってどれ?」とあなたに聞いてくる。そこで、あなたは答えるのだ。「ハエでもない、イナゴでもない、トンボでもない虫のこと」と。そうすると、あなたの友人は、「ああ、あの虫のことか」と合点がいくことになる。蚊の事をわかっていない友人に対して「あの蚊」といっても理解できない。「ハエでもない、イナゴでもない、トンボでもない虫のこと」のように、「〜でない」という表現を使わなければ、説明できないのだ。この事を、関係性というのだ。蚊というのは、その友人にとって、「ハエでもない、イナゴでもない、トンボでもない」と表現して、初めて理解できるものだ。決して「蚊」単体で理解できるものではない。蚊を理解するには、関係性を理解することなのだ。
言語というのも、周りとの関係で決まるものだ、というのが、ソシュールの考えだ。たとえば「『早足』とは何か」であるか。早足というのを知らない人に対して早足を説明するのは難しい。が、一つだけ簡単な方法があって、それは周りとの関係性から説明することだ。「歩くに比べて速い」とか「走るに比べて遅い」とか。そうすれば、「歩く」と「走る」の関係性から、「早足」というものがどんなものか、理解できるようになるだろう。
言葉とは差異のシステムである。例えば「歩く」と「走る」の中間として「早足」という表現が日本語にはあるから僕らは「早足」という日本語を使うことができるが、もしも世の中に「早足」とい表現のない言語があるとしたら、その言語を使う人たちにとっては。「早足」という行為すらもなくなってしまうだろう。その人たちにとって、僕らのいう早足は、「速度の速い歩き」もしくは「速度の遅い走り」でしかないのだ。僕ら日本人にとっては「歩く」と「走る」の間に「早足」という区分が存在するが、彼らにとっての早足は、「そんものは個別に区切ってわざわざ『早足』というほどのことでもないだろう」という感覚だ。
例えば、「耳が長い動物」といったら、我々日本人にとってはウサギだ。が、アメリカ人に取っては違う。アメリカ人にとって耳が長い動物は更に細かく分けることができ、ラビットとヘアーがいる。彼らにとっては、ラビットもヘアーも大いに違うのだ。「ラビットは、白色で足が短い、ペットによくいるウサギ。それに対してヘアーは、茶色で後ろ足が長い、野生のウサギ、である」と説明すれば、日本人にはわかりやすいだろうか。
僕ら日本人は大抵、ウサギをラビットと英訳するが、ラビットとウサギは、範囲が全く同じなのではない。ウサギの中には、ラビットとヘアーがいるのだ。このヘアーは、ラビット区別されることで、その存在が顕著になる。たしかに僕ら日本人にも、ヘアーは目に見える。が、ラビットと一緒にいれも、どれがヘアーでどれがラビットかは気にならない。確かに違いはあれど、大した違いではないように思える。このヘアーという存在は、ヘアーを「ラビットと区別するだけの価値がある」と思っているアメリカ人にのみ、認識できるものだ。ラビットとヘアーで「どっちも同じでしょ」「区別しなくてもいいでしょ」と僕ら日本人は思っているから、ヘアーに該当するような日本語を持たないのだ。どちらもラビットでまかなってしまう。他と(ラビットと)区別されるから、ヘアーという言葉が作られたのだろうし、認識できるものなのだ。
これは、ヘアーという言葉が、他との関係生の中にある、ということだ。ヘアーが認識されるには、ヘアーという言葉ができるには、ラビットとの差異が必要なのだ。
こんな風に、言葉というのは、それ単体として存在しているのではない。構造の中に、関係生の中に組み込まれているものなのだ。だから、その物を説明しようとすれば、「〜でないもの」という表現を使わなくは正確に説明できないし、「〜でない」を使うことで、容易に認識できるようになる。早足は、歩くでも走るでもないものだし、ヘアーは、ラビットではないものなのだ。
構造とは、この他者との関係性が一つや2つだけでなく、もっと複雑に、大きなクモの巣のようになっていることなのだ。僕が持っているiPhoneは、他の世界中の人が持っているiPhoneではないものだ。僕が着ているコートは、他の世界中の人が着ているコートではないものなのだ。それ単体で存在しているのではなく、他との関係生の中に「それ」を見るのが、構造主義なのだ。
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ようやくできました。「妄想スナイパー理論」です。タイトルは「インパクトがある方が人目につくかな」と思って、こんなタイトルにしていますが、中身は「犯罪と非行をなくして、思いやりを育む方法」になります。
思いやりってけっこう、掴みどころのないものだと思うんですよ。昔から「思いやりを持ちなさい」とか「思いやりが大事です」なんて周りから言われることは多いと思いますが、「それって何なの?」と聞かれた場合や、「それってどういうこと?」と深く知ろうとした場合、それと「どうやって持つことができるの?」となった場合に、うまく答えられないと思うんです。
そこで、一つの具体案として、「スナイパーのようなものだと」というのを示したいと思います。スナイパーとは、遠くから銃で相手を狙う、狙撃です。思いやりとは、スナイパーのようなものなのです。もちろん、思いやりっていうのは頭の中のことなので、実際に銃なり狙撃なりはしませんが、遠くから狙うすスナイパーと思いやりっていうのは、似ています。
スナイパーと思いやりはどうして似ているのか。スナイパーと思いやりの間の共通点とは何なのか。スナイパーと思いやが似ているのだとしたら、思いやりを育むにはどうすればいいのか。そんなことを、この小冊子には載せてみました。35,222文字です。目次はこちらで公開しています。
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