初詣は最近できた行事らしいから、そこからイライラしない方法を考える

2020.01.07 (火)

「初詣」というのは、意外と歴史が浅いらしい。

 

 

ハッキリとした「初詣」というのが現れたのは、ここ100年ほどの話らしい。こちらの記事によると、「初詣」という言葉が使われたのは1885年の東京日日新聞でのこと。もちろん、神社やお寺の歴史は古く、日本人はさんざん、事あるごとに神社やお寺にお参りに行ってはいたのだろうが、今のスタイル、お正月の恒例行事になったのが、ココ最近、ということだ。ハッキリとしたターニングポイントは、大正9年に明治神宮ができてから。メディアが大々的に報じたことも有り、東京の中心にできた明治神宮に多くの人がお正月に初詣をするようになったらしい。

 

 

この年末年始で、「除夜の鐘がうるさい」という記事を読んだことがる。近隣からの苦情に、夜中に鐘をつくのを止めたり、鐘をつくこと自体を取りやめたりする神社もあるという。で、それに対して「日本古来の行事なのに…」とか「日本人の心なのに……」という反論もあるわけだ。たしかに除夜の鐘に対して「うるさい」というクレームを言う人は、視野が狭く、自分のことしか考えていないのかもしれない。が、そのクレームに対して「日本の心なのに……」と反論する人もまた、視野が狭いと言えるのだろう。

 

 

除夜の鐘も初詣もなんとなく、「日本古来からの伝統で、日本人であるならば忘れてはならないもの。日本人のアイデンティティー。」という気がするが、実はそうでもないのだ。上に書いたように、何千年もの歴史がある日本という国の中で、最近のお正月のスタイルがとられるようになったのは、つい最近の話なのだ。日本の心でも、古来からの伝統でも、なんでもない。

 

 

世の中には、クレームに対するクレームがあり、クレームが起こればそのクレームに対するクレームを湧き上がる。クレームの無限連鎖で、とどまることを知らない。が、このクレームの連鎖を止めて、世の中を平和にする方法が、常識を疑う、当たり前を疑う、前提を疑う、ということなのだ。日本古来の伝統で、日本人のアイデンティティーと思っていた初詣ですら、「始まり」があったのだ。その「始まり」というのも、ココ最近の話で、鉄道会社やら日本政府やらの思惑の中でできたものだ。初詣も、人為的に作られた人工物でしか無く、長い時間をかけて練られたナチュラルに練られたものではないのだ。

 

 

こう考えると、人に対して反論する事がバカらしくなってこないだろうか。「そんなの当たり前だろう」とか「それが常識だろう」と考えたり言ったりすることが、なんだか自分の無知をさらけ出しているようで、そんなことはできなくなるだろう。

 

 

視野が広がると、反論できなくなるものなのだ。答えがわからなくなる。自分が信じてきたものが、信ずるに値しないとわかるので、無闇に主張できなくなる。が、それが「視野が広がる」ということなのだろう。

 

 

来年に向けて今、オリンピックの機運が高まっている。世界各国のアスリートが日本に集結し、各種目でのトップを競うのだ。それぞれのアスリートには「国の代表」としてのプライドがあるだろうし、「どの国が何個のメダル」という報じ方をメディアがするので、オリンピックには「国」という概念が強烈に入り交じる。オリンピックを経験することで、地球に引かれた今現在の「国境」というものが、印象に残ることになる。当然、国境によって分けられたそれぞれの国はどんな国なのか、ということが気になるし、その国の文化も気になるところだろう。

 

 

日本だって、日本という国の文化を外国の人に知ってもらいたいし。外国人も「日本ってどんな国?」「日本の文化って?」と思って、開催国に注目することだろう。が、忘れてはならないのは、その発信しようとしている日本の文化も、「意図的に作られた人工物」ということだ。どこかの誰かが、どこかの時点で決めたものでしか無いのだ。日本には北海道のアイヌ文化もあるし、沖縄の琉球文化もある。これまで何千年と続いた歴史の中で、闘争に破れて「これは日本的ではない」と捨てられてきた文化があるだろう。そんな、見向きもされないで捨てられた文化の上に、今では誰も覚えていないような犠牲になった文化の上に、今の我々がいう「日本古来の文化」が成り立っているのだ。

 

 

道徳、心、文化、伝統だって、疑いもしなかったら一種の偏見、こだわり、色眼鏡、思い込みでしかない。それらを「本当に文化なの?」「伝統なの?」と疑うからこそ、「いつ始まったか」「誰が始めたのか」という起点がわかり、視野が広がるのだ。「除夜の鐘を『うるさい』というなんて、日本古来の文化を否定する気か!」という盲目的なことは言えなくなだろう。「間違っているのは自分なのかもしれない」と思うようになり、相手の立場を考えるきっかけになる。相手の気持ちを考えるきっかけになる。闘争のない平和とは、広い視野の上に成り立つ。広い視野とは、物事の起点を考えると気づきやすい。

 

 

なお、こちらの記事も面白かったので、参照とした。

 

 

 

 

 


 

 

 

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