子育てや教育とは、ケーキを型でくり抜くようなものだ
悪いことというのは悪いことなのだが、いかんせん悪い事というのは、目で見ることも手で触ることもできない。
おそらく、言葉で表現することもできないだろう。それは、道徳というものが、理性を越えたところにあるからだ。言葉で表すことができるとは、理性的であるということであるが、何が善で何が悪か、とは理性を超えたところにあるからだ。
たとえば、人殺しは悪いことだろうか。これに言葉で答えるのは容易でない。人の自由を奪うから悪いことなのであろうか。確かに、殺されてしまえば、生きることはできなくなる。「生きたい」「生きてもっと楽しいことをしたい」「生きてもっと美味しいものを食べたい」などと思っている人にとって、殺されることなちっとも自由ではない。人の自由を奪うから、人殺しは悪いことなのであろうか。だったら、「死にたい」と思っている人を殺すことは、悪いことではないのだろうか。病気で、医者から「もう長くは生きられない」と宣告されてしまった人。あるいは事故で怪我をして、痛くて「こんな苦しい中で生きられない」と思っている人。そういう人を殺すのは、悪いことではないのだろうか。
例えば、人殺しは人を不幸にするから悪いことなのだろうか。確かに「生きたい」と思っている人を殺せてば、殺された人にとっては、それは不幸な出来事だ。けど、もしもその人が悪人だったらどうなのだろう。その悪人を放っておけば、より多くの人が殺されるかもしれない。5人、10人と殺されるかもしれない。そんな中で、悪人一人を殺すのは、果たして悪いことなのだろうか。悪人一人を不幸にしてしまえば、その他の大多数の人を不幸じゃなくする。むしろ幸福にするのであれば、悪人に対する人殺しは、相対的に幸福を増大させる。もっと大きな視点で見れば、多くの人を不幸にしないのだ。そうであれば、「人殺しは人を不幸にするから悪いことだ」というのも完璧な答えではなくなる。
例えば、人殺しは人に痛みを与えるから悪いことなのだろうか。確かに人殺しは、痛みを伴うものだと想像できる。交通事故にあえば、高いビルから落ちて地面に激突してしまえば、包丁で体を切られれば、とてつもない痛みが伴うだろう。けれど、痛みを伴わないなら良いのだろうか。聞くところによると、凍死というのは気持ちよく死ねるそうだ。眠るように意識が遠くなり、ボウッとした中で死んでいくそうだ。そんな殺し方を選べば、人殺しは正当化されるのだろうか。
人殺しが悪いことなのは、自由を奪うからか、人を不幸にするからか、痛みが伴うからか。それ以外も、おそらく理由は出てくるだろう。けれど、どんなに言葉で言い表そうとしても、人殺しを悪いことだとする理由としては不完全な感じがする。どうも断片的なのだ。いくらでも「だったらこんな場合はオッケーなの?」という抜け道を言い当てることができる。では人殺しは悪いことではないのだろうか。
いいや、そんなことはない。人殺しは悪いことだ。考えなくてもわかる。人から教えてもらわなくても、小学校低学年だってわかる。どんなにうまい言葉で言い表そうとしても、うまく言えないが、それでも人殺しは悪いことだと思う。人間としてやってはいけないこと。人として間違った行為だと判断できる。……ということは、言葉では言い表せないところ、理性をもって、筋道を立てて考えたところで、答えにたどり着くことはできないが、それでも「ダメなものはダメ!」「人殺しは悪いことだ!」と言えるのである。
言葉で言い表せないこと、というのはあるのである。何が正義なのか、何が善なのか、何が正しいことなのか。それらは全て、言葉で言い表すことはできない。我々はよく、子どもに対して言葉で伝えようとする。「これが良くて、これが悪くて、だからこんな事をしてはいけない」「だからこんな事をするべきだ」と、理詰めで子どもに伝えようとする。それに対して子どもは反論できない。うまく表現できない顔をして、怒ったり、泣いたり納得がいかなかったりだ。
そんな構図を見ていると、むしろ子どもの方が正しいような気もする。我々は言葉に頼りすぎだ。当たり前だが、相手に何かを伝えようとすると、言葉でわかりやすく伝えようとする。相手にわかりやすく伝えようとすると、自然と具体的な説明になる。抽象的な説明では、モヤモヤとした現実味のない説明になるからだ。
だが、これらの行為全てが、結局は「枠にはめる」という行為に他ならない。抽象的なもの、モヤモヤとしたもの、なんとなくしかイメージできないものを。具体的に表現を選び、言葉で言い表そうとし、自分の理解できる内容で伝えようとするのだ。すべて、枠にはめる行為でしか無い。可能性の広がっている子どもを、わざわざ「自分」という古い時代のものにカテゴライズする行為にほかならない。
子どもと接する時、大人はうまく言葉で表現することができる。が、それというのは思い込みではないだろうか。うまく言葉で表現できることしか、伝えようとしていないのではないだろうか。伝えようとしている内容があっても、それを言葉という行為で伝えようとするあまり、言葉で伝えられる内容にしかスポットライトが当たっていないのではないだろうか。で、そのスポットライトが当たっている部分のみを、「自分の考え」だと思い、その狭い範囲に子どもを誘導しようとしているのではないだろうか。
子どもを教育しようとすることは、子どもを自分という古い型にはめようとする行為に他ならない。ケーキを作る時に、生地を型でくり抜いていくようなものだ。せっかく広がりがあるのに、作りやすくするために、型でくり抜いていき、はみ出た部分はなかったことにするのだ。子どもを教育するのが悪いことだとは言わないが、少なくとも型でくり抜く行為だということを頭のどこかに入れておいた方がいい。
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