子育てにおいて、「理解できない」はチャンスである
子どもが可愛くない親はなく、ほとんどの親にとって子どもは可愛い存在である。
だから、子どもが何かしらしないと言ったら、叶えさせてやりたいのが親心だろう。「勉強ができるようになりたい」と子どもが言ったら、「こんな風に勉強をしたらいいんじゃない?」「こんな勉強をしたらいいんじゃない?」とすすめるし。「早く走れるようになりたい」と子どもが言ったら、「こんな運動をしたらいいんじゃない?」とか「こんな事をすれば早く走れるようになるんじゃない?」と知っていることや調べたことを教えるだろう。
けど、そんな親が勧めたものや、親が教えた物を、子どもが受け入れるとは限らない。子どもはそれを拒否する。そこでおやとしては、「せっかく教えてやったのに」「せっかくこんないい方法があるのに」「せっかくこんな近道があるのに」と、理解できない子どもが悪いかのように思ってしまう。
認識の違いなのだ。
例えば、「足が早くなりたい」という子どもがいたとして、その子どもに対して親としては、スポーツクラブに入る事を進めるだろう。だが大抵、子どもはスポーツクラブなどには通いたくないものだ。親としてそれが理解できない。スポーツクラブに入れば足が早くなるのに、どうして入ろうとしないのか。けど、そこがすでに認識の違いなのだ。これは子どもが悪いわけではないし、理解できない子どもの頭が悪いわけでない。
例えば「ピアノをひくのが好き」な子どもに対しては、ピアノ教室に通わせたがるのが親心だろう。ピアノ教室に通えばピアノを上手く引ける様になる確率は高くなる。だが、自らピアノ教室に通いたがる子どもというのは、なかなかいないものだ。どうしてピアノを上手く引けるようになりたいのに、ピアノ教室に通いたがらないのか。親としてはそこが理解できない。けど、そこがすでに認識の違いなのだ。これは、子どもが悪いわけではないし、「ピアノ教室→ピアノがうまくなる」という構図を理解できない子どもの頭が悪いわけでもない。
子どもの行動や言動は多くの場合、大人には理解できない。親としては子どもの望みを叶えてやるため、論理的に考えて妥当な答えをだして勧めてやるのだが、子どもはソレにノッてこない。
それは、子どもと親で見ている世界が違うからだ。「どっちが理解していて、どっちが理解していない」という問題ではない。それ以前に、「どっちの考えが正しくて、どっちの考えが間違っている」という問題でもない。ただ、見ている世界が違うのだ。イメージしている理想が違うのだ。
特に親は子どもに対して、自分が理解できる範囲に子どもを持ってこさせようとする。ピアノを上手く引ける様になりたい子どもにはピアノ教室をすすめるし、足が早くなりたい子どもにはスポーツクラブをすすめる。「ピアノを上手く引けるようになりたい→ピアノ教室」「足が早くなりたい→スポーツクラブ」という構図が、親の固定化された古い考えでしか無いのだ。
ピアノ教室に通わない自分の子どもに対して「やる気がない」と思ったり、スポーツクラブに通わない自分の子どもに対して「わかってない」と思ったりする。そんな、論理的にはじき出した自分のお勧めを受け入れない子ども対して、「理解できない」と感じる。が、この「理解できない」というのが、大事なのではないかと思う。むしろ、親のお勧めを従順に受け入れてしまう子どもの方が、親に毒されていて、危険な状態なのではないかと思う。
理解できないとは、良いことだ。親の価値観をぶち壊してくれる可能性があるからだ。「子どもの言うことが理解できない」とは、子どもが、親が理解できる仕方で表現していないだけだ。理解をするには、自分の側に入ってきてもらう必要がある。例えば野球がうまくなりたいなら野球の用語を使って説明してくれなければ、なかなか理解できないだろう。「バッターは……」とか「一塁手は……」というように、野球について話すには、野球の中に入って野球の用語を使わなければ、野球について話すことはできないのだ。
が、これでは野球を超えることはできない。野球よりも高い視点で話してくれる人は、決して野球の用語にこだわったりしない。聞いている方は野球について話していると思って野球脳になって聞いているのだが、話される内容が野球よりも視点がたかいものだから、なかなか理解できないのだ。これは、親が子どもの話しを理解できない事に似ている。親が子どもの話を理解できないと思うのは、子どもの考えや頭が論理的に間違っていたり未熟なのではなく、そもそも親の視点でカテゴライズされた世界観にいない、ということなのだ。
これはむしろ、喜ぶことではないだろうか。「子どもが理解できない」という親はよくいるが、「子どもを理解できない」とは、「子どもが大人によってカテゴライズされた世界にいない」ということであって、大輪の花をさかせる可能性がある、ということだ。喜ぶべきことなのだ。
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