警察学校がどんな所なのかを、構造主義で説明する

2020.01.10 (金)

我々は主体的にものを考えているようで、実は考えていないんじゃないの?

 

 

20世紀のフランスで、それまで実存主義を率いて思想会に君臨していたサルトルに対し、レヴィ・ストロースは死刑宣告を下したのだ。実存主義とは、今でいう「意識高い系」の思想だと思ってもらっていい。

 

「主体性をもっていこうぜ!」

「積極的に社会に参加しようぜ!」

 

そんな「自分の人生は自分で決めるんだ!」のような思想の実存主義に対し、レヴィ・ストロースは、一歩引いた、冷めた態度のような批判を下したのだ。「我々は主体的にものを考えているようで、実は考えていない。我々の思考は、社会の構造に依存している」と。

 

 

たとえば、さっき僕はスタバでコーヒーを注文した。今僕は、コーヒーを飲みながらこの文章を書いている。MacBookの隣に、紙カップに入ったコーヒーが置いてあるのだが、このコーヒーは今、当然、紙カップの形をしている。それはさっき、僕がカウンターの店員さんに「紙カップにしますか? マグカップにしますか?」と聞かれて、「紙のカップでお願いします」と頼んだからだ。だからこのコーヒーは今、紙カップの形をしてこの場にある。もしもあの時、僕が「マグカップでお願いします」と店員さんに答えていたら、このコーヒーは今、マグカップの形をしていたことだろう。それは決して、コーヒーが独自に決められるものではない。コーヒーに「心」があったとして、そのコーヒーは「いや、自分が決めてこの形をしているんだ」と答えても、それは物事がわかっていない。コーヒーの形は、器に依存しているのだ。

 

 

それと同じで、人の思考というものも、その人が属する社会の関係で成り立っている。

 

 

警察学校というものがある。最近、フジテレビで「教場」というドラマを放送していたようだが、話題になっている。この「教場」というドラマは、キムタクが主演しているということで、人気が出たそうだ。僕はまだドラマの本編を見たことがなくて、さっきほんのちょっとユーチューブで広告を見ただけだが、昔の思い出が蘇るようでよかった。近いうちに本編を見たい。

 

 

警察学校では、とにかく教官が怖い。生徒は教官にビクビクして過ごすことになる。警察学校の生徒は、なにも大学や高校を卒業してきてこれから警察官になる、いわゆる「警察官の卵」ばかりではない。警察官というものは、定期的に警察学校にはいって法律やらなにやらを勉強してる。定期的に警察学校で生徒になるのだ。

 

 

で、警察学校の教官というものも、教官である前に、普通の警察官である。たまたま部署異動で警察学校の教官をやってはいるが、一般的な「警察官」として十分な経験のある人たちでもある。

 

 

だから、警察学校内の生徒も教官も、その時たまたま、一緒に警察学校で出会って「生徒」と「教官」という立場になったのだ。部署異動で警察学校を出ることになれば、お互いに普通の警察官なのだ。

 

 

が、それでも、教官と生徒の間には、キャズム的な崖が存在する。たとえ以前の部署でフラットに話をしていたとしても、一歩警察学校という社会に入ると、そのフラット感は消し飛んでしまう。いかにそれまでフラットに話をしていたとしても、警察学校の生徒にとって教官はとてつもなく怖い存在なのだ。

 

 

警察学校の中では、儀礼が数多く存在する。これは形的なものだ。生徒は教官に対してうやうやしくしなくてはならないし、逆に教官は生徒に対して見本となるような存在であることを意識する。初めは「あくまで形だから」と思ってそのような態度をとっていても、そんな態度が何日か続くと板についてしまうのだ。染み付いてしまうのだ。形だけでなく、本心までも侵されてしまうのだ。

 

 

これは構造主義そのものではないだろうか。構造主義の、いい参考例ではないだろうか。構造主義は、自分たちで自由に、主体的に物を考えているようで考えていない。社会から影響を受けていて、僕たちの思考は社会の構造に依存しているのだ。

 

 

この構造主義は、警察学校という社会をも、うまく説明してくれる。どんなに強気な人間でも、警察学校の中に生徒として入れば、本人の知らずしらずのうちに、生徒らしくなってしまうのである。教官の顔色をうかがって授業を受け、教官がいないかどうか気にしながら廊下を歩くのだ。警察学校のルールを守り、できるだけ目立たないように行動するようになる。

 

 

 

どんなに弱気な人間でも、警察学校の中に教官として入れば、本人の知らずしらずのうちに、教官らしくなってしまうのである。シワのない制服を着て、威圧するような態度で教場に入り、深々と腰を折る挨拶を生徒からされたとしても「おう」とだけ答えるようになるのだ。

 

 

それは、紙カップに入ったコーヒーが、紙カップの形をしているように、である。どんなにコーヒー自身が「いいや、オレは自分で選んで、この形になったんだ」と言ったって通用しない。コーヒー自体に選択の余地はないのだ。

 

 

 

 

 


 

 

 

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