日本人にとって哲学の理解など、しょせんは無理か〜反哲学入門
毎年、ノーベル賞の時期になると、報道に違和感を覚えるのは私だけではないだろう。毎年毎年噂される、「村上春樹はノーベル文学賞をとれるのか」という論争。本人も迷惑に思っているだろう。毎年「今年こそはとれるのか、それとも今年もダメなのか」と騒がれては、もはや「村上春樹がノーベル文学賞をとれるかどうか」が争点なのではなく、そんな風に野次馬的なノリで騒ぐこと、論争しているかのように報道することが目的であるかのように、見ている方には見える。で、そんな時によく報道されるのが、「村上春樹の作品は海外でもこんなに読まれていますよ」という声だ。外国人へのインタビューの様子が放送され、「村上春樹は海外でも人気!」という方向に持っていこうとする姿勢に見えるが、そんな報道を見るたびに私は、「日本人以外が、本当に村上春樹の作品を理解できるのか」という事を疑問に思う。使っている言語も違うし、文化も共有していない部分が多い。そんな日本人には縁遠い海外のの人が、ファンになるくらい村上春樹の作品は本当に理解されているのか、と疑問に思う。
おそらく本当の意味では、理解していないだろう。理解できないだろう。確か、私が若い時に通っていた英会話スクールの外国人の先生もそんな事をいっていてたと思う。そのときも確か村上春樹の作品の話だったと思うが、日本で英会話スクールの講師として働く彼女は、「村上春樹の作品は好きよ。けれど本当に私たちが村上春樹の作品を理解しているかというと、そうではないと思うわ」というような事を言っていたのを記憶している。つまり、国語という頭のベースが違うので、ものの考え方に隔たりがあるのだ。おそらく外国人の人は、村上春樹の作品を、村上春樹と同じ文化を共有している人たち(つまり日本人)ほど理解はしていない。
どんなに音楽に感動したとしても、僕ら日本人が、マイケル・ジャクソンを理解することはできないのだ。文化的な背景が違いすぎる。僕らの背景にはキリスト教がない。聖書も読んだこともない。
西洋人が、日本文化を理解することも、本当の意味ではできないだろう。確かに俳句はシンプルなのだが、それだけではない。その歴史的背景をわかってこそ、俳句から与えられるものに印象を持つものなのだ。
野球とベースボールだって、表面上は同じ競技をさして入るが、その競技から受ける印象が、アメリカと日本では微妙に違うのだろう。おそらくアメリカ人に取って野球は、豪快で、フルスイングで、ホームランで、全力投球で……というものだろう。それに対して日本人は、少年野球や甲子園でプレーする子どもたちの姿も頭に描くので、実際にプレーしているプロの他に、頭の中に文化的な背景も見ていることになる。同じルールの競技に見えても、野球とベースボールは違うのだ。僕に見えているのは、日本人の文化的な視点をも通した野球であって、アメリカ人に見えているのは、アメリカの文化的な背景をもったベースボールである。もしかしたら、理解し合うことはできないのかもしれない。
西洋人に、八百万の神とか、妖怪変化とか、日本の侘び寂びとか、そんな物を日本人と同じように理解しろと言ったところで、無理な話である。所詮は、西洋人としてのフィルターをとおして見た日本文化である。それそのものは見えていないのである。「西洋文化に例えると、こんなところか」などの、自分たちのフィルターをとおしてしか理解できないのだ。
ハロウィーンは元々、秋に行う収穫祭であって、「神様、今年も大地のお恵みをありがとうございます!」という意味のものだった。が、日本に取り入れた瞬間、仮装大会などの意味にとって変わってしまった。ハロウィーンという同じものを見ていても、文化が違えば、見えている姿も違うのである。
「グーグルも禅を取り入れている」と言うのが話題にもなって、禅を取り入れる企業が欧米で増えているようであるが、彼らにしても、本当に禅を理解しているのかというと、そうではないだろう。禅に対して「イッツ・クール」といった瞬間に、おそらく「日本人と見ている世界が違う」ことを露呈してしまったのである。
娯楽にしてもそうだ。ハリウッド映画だって、きっと僕らが見てハリウッド映画に抱く感想と、欧米人が見て抱く感想では、大きく隔たりがあるはずなのだ。
だから哲学も、所詮はヨーロッパという限られた地域で作られ、育まれ、積み上げられた学問なのである。八百万の神々を元々の頭のベースとして持っている僕らが、いくら頑張ったところで、超自然という視座は得られないのである。日本人にとって、身の回りにあるのは、ただの壮大な自然である。右を見ても自然だし、左を見ても自然である。そんな視点から、自然の中に神様を求める風習が生まれたのである。日本人にとって、哲学をどんなに勉強しようと、ヨーロッパ人のように哲学を理解するは無理なのだ。
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ようやくできました。「妄想スナイパー理論」です。タイトルは「インパクトがある方が人目につくかな」と思って、こんなタイトルにしていますが、中身は「犯罪と非行をなくして、思いやりを育む方法」になります。
思いやりってけっこう、掴みどころのないものだと思うんですよ。昔から「思いやりを持ちなさい」とか「思いやりが大事です」なんて周りから言われることは多いと思いますが、「それって何なの?」と聞かれた場合や、「それってどういうこと?」と深く知ろうとした場合、それと「どうやって持つことができるの?」となった場合に、うまく答えられないと思うんです。
そこで、一つの具体案として、「スナイパーのようなものだと」というのを示したいと思います。スナイパーとは、遠くから銃で相手を狙う、狙撃です。思いやりとは、スナイパーのようなものなのです。もちろん、思いやりっていうのは頭の中のことなので、実際に銃なり狙撃なりはしませんが、遠くから狙うすスナイパーと思いやりっていうのは、似ています。
スナイパーと思いやりはどうして似ているのか。スナイパーと思いやりの間の共通点とは何なのか。スナイパーと思いやが似ているのだとしたら、思いやりを育むにはどうすればいいのか。そんなことを、この小冊子には載せてみました。35,222文字です。目次はこちらで公開しています。
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