子どもの非行の原因が親なのかというと、そんな単純な話でもない
子どもの非行の原因は何なのか、というのをインターネットで調べてみると、よく出てくる答えが、「それは親に原因がある」というものである。「100パーセント親の責任だ」とか、「親がそうだから子どももそうなる」とか。あたかも子どもの非行のすべて、子どもの生活のすべて、子どもの人生のすべてが、親に責任があるかのような言い方だ。まあ、単純にそうでもないだろう。そう単純な話でもない。「子ども=親」であるのなら、改善策は決まっているようなもので、世の中には善人しかいなくなっている。簡単に「子ども=親」ではないから、こんなにも犯罪がばっこする社会になっているのだ。
というのも、親では把握できないことがもはや多いのだ。親の目の届かないところに子どもの生活がありすぎる。父親も母親も、子どもが小さい頃から保育園なりに預けて働いているのが当たり前の時代だ。子どもが小さいからといって、四六時中ずっと一緒にいるわけではない。これは決して子どもを預けることが悪いと言っているわけではなく、子どもを預けることはしょうがないし、一人で育てるよりもその方が良いと思うのだが、とにかく子どものすべてを「親の責任」と言っているようでは、近視眼的すぎるのだ。
子どものすべてを「親の責任」と言っているようでは、短絡的過ぎる。これは、有名人を非難することに似ているのではないだろうか。すぐに責任者を公の場に出させて、皆んなで叩けるだけ叩こうとする態度。政治家の発言の足をとらえて「これはどうなっているのだ!」「これはどういう意味か!」と発言の意図や真意を本人から説明させようという構え。チームスポーツの負けの原因を、ただ一人に押し付けようとしたり、そんな、すべての原因をただ一人に押し付けようとする不寛容さと同じなのではないか、と考える。
子どもの非行の原因とは、実はそんな不寛容さなのだ。間違っている者がいれば、すぐに叩いて周りと同じにしようとしたり。原因を見つければ、原因をつくった人間をさらしものにしようとしたり。それまで上手くいっていた者が失敗すれば、「見たことか」「やっぱり」などと言って鬼の首をとったように非難したり。そんな、「すぐに是正させよう」とか「間違いを直させよう」とか「違っている部分を同じにさせよう」とか、自分以外の価値観を認めない雰囲気が、子どもの非行を助長するのだ。決して「親一人」「親の責任」などと、一つに原因を絞れるものではない。確かに「主たる原因を無理にたった一つだけ出しなさい」というのなら、それは親ということになるのかもしれない。「子どもと一緒にいる時間が一番長い人間は誰か」と考えたら、その子どもの親になることは間違いないだろう。
だが、「子どもの非行の原因が親」では、あまりにも表面的すぎる。一面的すぎる。部分的すぎる。非行という出来事の一面しか見ていないのであり、ほんの一部分しか見ていないのであり、薄っぺらい表面しか見ていないのだ。
物事の本質が具体ではなく抽象にあるように、非行の本当の姿や原因も、やはり親ではなく、社会にあるのだ。社会の雰囲気、とでもいったらいいか。それが不寛容さなのだ。「具体に取り憑かれている病」とも言えるかもしれない。なんでもかんでも具体的がいいと思っている雰囲気。抽象的なものが間違っていたり、考えられていないと思い込んでいる雰囲気。何か気に入らないこと、自分の価値観とは違うこと、共感できないことがあると、具体的なものに原因を求めてしまうこと。それこそが非行の原因なのだ。
もしも非行を無くしたいのなら、親を責めてばかりいてもしょうがないのだ。親という絞られた一点に集中してもしょうがない。もっと広い部分に目を向けなくてはらならない。だから、解決策も曖昧である。具体的な方法など出せるはずもない。もとフワフワしているものである。「どうやったら不寛容を社会からなくせるか」「どうやったら世の中が寛容的になれるのか」「どうやったら自分とは違う価値観を認められるのか」「どうやったら多角的に物事を見られるようになるのか」など、そんなところだろう。
子どもの非行の原因は親ではなく、社会全体にあるのだ。「親の責任だ」というのは、全体の責任を唯一人に押し付けようとする小学生と同じなのだ。まあ、だからといって、個人が何もしなくていいというわけではない。全体がしっかりするには個人一人ひとりがしっかりしなくてはならないし、社会全体に寛容さを育てるには、個人一人ひとりが自分の中に寛容さを育てなくてはならない。
単純ではない。親一人に責任をおしつければそれで済む問題でもない、ということである。子どもは親と接していると同時に、社会と接している。友だとも遊ぶし、保育園の先生とも話をするし。街で知らない人間の真似をするし、テレビに出てきた人間の真似だってする。社会と繋がっているのであって、それを「親だけ」だというのは、あまりにも全体を見ていなさすぎる。
子どもの非行は、その子どもの親だけの問題ではなく、社会全体の問題なのだ。
イライラは良くないし、できればイライラしないで生活したい。感情的になりがちな性格をコントロールして、楽しく笑いながら生活するためのヒントを載せた本です。
電子書籍でも買えますし、紙の本(プリント・オン・デマンド)も選べます。
タイトルは、「人に優しくなれる発想法」。想定されると読者は、主に子ども相手にイライラしてしまうお父さんお母さんですが、仕事やプライベートでのイライラする人間関係が気になっている方にも読んで欲しい内容となっています。
「素直さ」を考えるセミナーを定期的に開催しています。スケジュール・詳細はこちらをご覧ください。
自己中が思いやりに、
生真面目が寛容に、
怒りっぽさが優しさに、
そして非行が素直に変わります。
心よりお待ちしております。
[contact-form-7 id=”10255″ title=”セミナー申込みフォーム”]
30分の無料相談を承っています。子ども、非行、犯罪、警察対応、などのキーワードで気になりましたらご利用ください。基本はウェブ会議アプリを使ってのオンラインですが、電話や面談も対応できます。
モヤモヤ状態のあなたが、イキイキとする無料相談です。次の一歩を踏み出すために、お気軽にお問い合わせください。
下記お問い合わせフォームで「相談希望」である旨をお知らせ下さい。
[contact-form-7 id=”2700″ title=”お問い合わせ”]
ようやくできました。「妄想スナイパー理論」です。タイトルとしては、「インパクトがある方が人目につくかな」と思って、こんなタイトルにしていますが、中身は「犯罪と非行をなくして、思いやりを育む方法」になります。
思いやりってけっこう、掴みどころのないものだと思うんですよ。昔から「思いやりを持ちなさい」とか「思いやりが大事です」なんて周りから言われることは多いと思いますが、「それって何なの?」と聞かれた場合や、「それってどういうこと?」と深く知ろうとした場合、それと「どうやって持つことができるの?」となった場合に、うまく答えられないと思うんです。
そこで、一つの具体案として、「スナイパーのようなものだと」というのを示したいと思います。スナイパーとは、遠くから銃で相手を狙う、狙撃です。思いやりとは、スナイパーのようなものなのです。もちろん、思いやりっていうのは頭の中のことなので、実際に銃なり狙撃なりはしませんが、遠くから狙うすスナイパーと思いやりっていうのは、似ています。
スナイパーと思いやりはどうして似ているのか。スナイパーと思いやりの間の共通点とは何なのか。スナイパーと思いやが似ているのだとしたら、思いやりを育むにはどうすればいいのか。そんなことを、この小冊子には載せてみました。35,222文字です。目次はこちらで公開しています。
下のフォームにてお名前とメールアドレスを入力のうえ、無料でダウンロードできますので、ぜひ読んで頂ければと思います。
[contact-form-7 id=”4057″ title=”小冊子ダウンロード”]
関連する投稿
- 犯罪を引き起こす要因、犯罪を減らす方法
- 犯罪をなくすためにできること。犯罪を3つに分類して対処する
- 金、地位、名誉をバカにする態度。「高踏的」を紹介する
- 非行グループから息子を離したいのですが、良い方法ありませんか?
- たとえば、子どもに無理にご飯をたべさせることの功罪
現在の記事: 子どもの非行の原因が親なのかというと、そんな単純な話でもない