哲学と哲学史とは、野球の観戦とプレーのようなものだ

2019.11.21 (木)

先日、ある本を読んでいた際に、「哲学するとは、哲学史を勉強することではない」という文章が目についた。なるほど、哲学をすることとは、哲学史をなぞることではないらしい。この本の著者が言っていることはどういうことか。おそらく本当の意味での「哲学」とは、物事を深く考えることなのだろう。「自分とは何か」「規則とはどうしてあるのか」「犯罪はどうしてだめなのか」「世の中に男と女があるのはなぜか」など、そんな身近過ぎて答えが到底出そうもないことについて、自分なりに深く分け入っていくことが、この本の著者がいう、本当の意味での「哲学をする」ことなのだろう。

 

 

たしかに本屋に行くと、「哲学」と名付けられて売られているのは、哲学史に登場する大御所たちをわかりやすく紹介する本屋、その人たちの本を紹介する本や、その人たちの難しい言葉を解説する本、などである。けっして自分で考えるのではなく、自分で先に何があるかどうかわからないような宇宙を分け入っていくような本ではなく、解説本である。この先にの宇宙にはなにがあるのか、こんな風に考えた先人がいる、とか。すでにあることの紹介、である。

 

 

それは、旅をすることと、ガイドブックの関係に似ているかもしれない。実際に旅をするのが、哲学すること。ガイドブックを読むことが、哲学史を勉強すること。哲学史を勉強することは、けっして哲学することではない。ハイデガーや、サルトルや、ウィトゲンシュタインや、デリダや、アリストテレスや、プラトンの本を読んだり、彼らの考えをなぞることは、物事を深く考えることとは違うのかもしれない。いくらガイドブックを読んだところで、実際に旅に出ることとは違う。旅に出て、旅の難しさや楽しさ、寂しさや嬉しさを実際に手に取ること。それとガイドブックを読むことは違う。いくらガイドブックをよんだところで、それは「行った気になる」だけである。「ニューヨークのガイドブックを読んで、ニューヨークに行った気になる」「フィリピンのガイドブックを読んで、フィリピンに行った気になる」「ヨーロッパのガイドブックを読んで、ヨーロッパに行った気になる」と、そんなところであろう。

 

 

確かに哲学の先人たちは強力だ。だから、それらの先人の足跡を読んでいると、ついつい自分が考えているような錯覚におちいってしまう。あたかも、自分が最前線にいるような、自分が思考の最前線で、今まさに開拓をして分け入っているような感覚におちいってしまう。けれど、自分はやっていないのだ。自分はあくまでも外部のもので、最前線で分け入っている人間とは違う。

 

 

が、哲学史を勉強することが、哲学することの劣化コピーなのかというと、決してそうではない。哲学することと哲学史を勉強することは似ていて、哲学史を勉強したり哲学史の本を読んでいる人は、哲学する人に到底及ばないのかというと、決してそうではない。なぜか、それは、哲学することと哲学史を勉強することは、ちょうど野球をプレーすることとプロ野球を観戦することに例えられるからだ。哲学することが、野球を実際にプレーすること。哲学史を勉強することが、プロ野球を観戦すること。

 

 

野球の面白さは何か、という問題である。確かにプレーすることは面白い、楽しい。バットを構えて、やってくるボールを打ち返して、打ち上がったボールを追いかけて、グラブで取って。力いっぱい、思いっきり腕と全身を使って、遠くの目標に向かってボールを投げる。ボールが弧を描いて吸い込まれていく。そんな気持ちのいいプレーをするのが、野球をすることだ。チームメートがいて、監督がいて、相手選手たちがいて、審判がいて。フィールドで自分自身が動くのが、野球をすることなのだ。

 

 

でも忘れてはいけない。もう一つ、野球の楽しさを味わう方法がある。プロ野球を観戦することだ。そこはフィールドではなく、テレビが置いてある居間かもしれない。チームメートや相手選手たちがいるのではなく、そこにいるのは自分ひとりかもしれない。自分が全身を使ってプレーしているのではなく、寝転がったりソファに座っているだけかもしれない。が、それも一つの野球を味わう方法なのだ。自分ではできないようなプレーに思いをはせる、憧れる、想像する。自分ができない代わりに、その道のプロの視点を味わう。

 

 

プロ野球を観戦している人を、「お前は野球をやっていないじゃないか」と誰が攻めることができよう。「お前は野球体験は劣化コピーだ」と誰が非難することができよう。それも一つの野球なのだ。観戦することで、自分が実際にプレーする力も身につくだろうし、興味がよりわくだろうし、多面的に多角的に客観的に見る目を養うことができる。

 

 

ニーチェやキルケゴール、カントやデカルトらに思いをはせることは、プロ野球選手に思いをはせることと同じなのだ。どっちも野球だし、どっちも哲学。どっちも本物なのだ。

 

 

 


 

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思いやりってけっこう、掴みどころのないものだと思うんですよ。昔から「思いやりを持ちなさい」とか「思いやりが大事です」なんて周りから言われることは多いと思いますが、「それって何なの?」と聞かれた場合や、「それってどういうこと?」と深く知ろうとした場合、それと「どうやって持つことができるの?」となった場合に、うまく答えられないと思うんです。

 

そこで、一つの具体案として、「スナイパーのようなものだと」というのを示したいと思います。スナイパーとは、遠くから銃で相手を狙う、狙撃です。思いやりとは、スナイパーのようなものなのです。もちろん、思いやりっていうのは頭の中のことなので、実際に銃なり狙撃なりはしませんが、遠くから狙うすスナイパーと思いやりっていうのは、似ています。

 

スナイパーと思いやりはどうして似ているのか。スナイパーと思いやりの間の共通点とは何なのか。スナイパーと思いやが似ているのだとしたら、思いやりを育むにはどうすればいいのか。そんなことを、この小冊子には載せてみました。35,222文字です。目次はこちらで公開しています。

 

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