子どもの非行を考えるなら、哲学の本を読んだほうがいい

2019.11.02 (土)

子どもの非行を考えるなら、哲学の本を読んだほうがいい。というのも、哲学とは我々人間の土台を作る補助をしてくれるものだからだ。人間の土台とは、考えである。この考えをつくるのに、つまり何かを考えて答えをだそうとするのに、哲学は大いに役立つからだ。

 

 

で、この「非行」というのは、話が大きくなりがちなテーマである。「非行とは何か」「犯罪とは何か」「どうして犯罪をしてはいけないのか」「犯罪は悪いことなのか」「法律は必要なのか」などと、答えが出ない方向に行きがちなテーマである。そして、このような答えが出ない壮大な方向でずっと闘ってきたのが哲学者たちなのだ。子どもの非行と哲学は、相性がいいのだ。

 

 

哲学は、「そもそも」という問いを、我々に投げかけてくれる。一見、悪いことと思われる非行、それに対して「そもそも非行は悪いことなのか」とか。一見、無くては社会が成り立たないような法律、その法律に対して「そもそも法律は必要なのか」とか。物事を外側から見る癖、そんな視点に気づかせてくれるのが、哲学なのだ。外側の視点というのは、気づくのが難しい。気づいてしまば、それなしでは物事を見られなくなるような大事なものなのだが、「それまでにない視点」というのは、認識するのが難しいものなのだ。

 

 

たとえば、いまでこそファストフードは日本にはたくさんある。マクドナルド、モスバーガー、フレッシュネスバーガー、ファーストキッチン、などなど。けれど、はじめて日本にマクドナルドが出るまで、日本人にファストフードはなかったのである。こんな上手くて早いものがあるとは、知らなかったのである。マクドナルドは、それまでにない「ファストフード」という視点を、我々に気づかせてくれたのである。

 

 

アニメのエヴァンゲリオンは、精神世界の描写を得意としていた。今でこそ、どのアニメでも実際の世界ではない、精神的な世界を描写することは多くなっているが、それまでに精神世界の描写を前面に押し出すことなどなかった。登場人物の頭の中の移り変わり、考え、動揺。そんなものを何分にも渡って放送し、現実世界では時間が進んでいないなど、エヴァンゲリオン以前では考えられなかった。エヴァンゲリオンは、それまでにない「精神世界の描写」という視点を、我々に気づかせてくれたのである。

 

 

哲学というのは、「そういうことか」と我々に気づかせてくれる。客観的に見れないほど、我々の中に浸透してしまっているものに対して、「それはこんなものですよ」と客観の視点を気づかせてくれるのだ。例えば言語である。我々はもう、物心がつくかつかないかの頃から言葉を話している。手首にはめる時間を示す機械を「腕時計」といい、床に立っている四角い天板を「テーブル」といい、本やパソコンが入った黒い布製の入れ物を「バッグ」という。きれいなものを「きれい」といい、早いのものを「早い」という。物事や概念に対して、ラベルのような感覚で言葉を使っている、と思っていはいないだろうか。

 

 

腕時計があるから腕時計といい、きれいなものをみて「きれい」というと思っていないだろうか。たとえ我々がココからいなくなっても、腕時計は腕時計として存在し、きれいなものはきれいなものとして存在するとおもっていないだろうか。実は、これは逆なのである。腕時計を「腕時計だ」と認識するから腕時計が存在するし、きれいなものを「きれい」と認識するから、きれいなものが存在するのである。

 

 

これは日本人にとってのネズミとアメリカ人にとってのネズミの関係に似ている。我々にとって、ネズミはネズミでしか無いが、アメリカ人はネズミをラットとマウスに区別している。区別している、というか、そもそもアメリカ人にとってラットとマウスは別の生き物なのだ。ラットとは、我々でいうところのドブネズミのようなもので、汚いネズミである。マウスとは、我々でいうところのハツカネズミのようなもので、かわいいネズミである。アメリカ人は、ひとくくりでネズミのような感覚でネズミを見ておらず、はじめからラットとネズミを分けて世の中を見ているのである。

 

 

けれど、我々にとって、ネズミはネズミでしかない。確かにラットとマウスという概念は理解できる。汚いネズミとかわいいネズミがいることも理解できる。が、大して変わらないだろうという感覚だ。つまり、我々日本人にとっては、ネズミはいるが、ラットもマウスも存在していないのである。それに対して、アメリカ人にとっては、ラットもマウスもそれぞれを認識しているから、ラットもマウスも存在しているのである。

 

 

このように、言語一つとっても、哲学は当たり前のように浸透してるものに対して、外側から見る視点を与えてくれる。外側から「こういうものだよ」という視点を気づかせてくれるのである。

 

 

子どもの非行は、切り口が大きくなりがちなので、哲学と相性がいいものである。哲学の本を読めば、「非行とはそういうものか」という、子どもの非行に対する客観の視点が得られるだろう。

 


 

 

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