怒らない人って怒りを抑える癖がついているのでしょうか
あくまで僕のケースを話しますね。
僕も人からよく「優しい人ですね」とか「優しさがありますね」と言われます。というのも、怒らないからです。主に仕事をしていてのことですが、部下が失敗したり、他人の迷惑を被ったり、おそらく他の人であれば怒っていいるような時でも怒らないでいるので、そんな風に「優しいですね」なんて言われるのだと思います。
僕の場合は、けっこう冷めているから優しくできるんです。あんまり真面目にとらえていない。
たとえば小学校の運動会の時、運動会に人生を賭けているかのように熱心に取り組むクラスメートがいませんでしたか? そういうクラスメートっていうのは、自分や自分のチームが勝ったり有利になると喜ぶんですが、負けたり不利になると、悔しくて機嫌が悪くなるんですよね。
たとえば子どものことに関してもそうだと思うんですけど、僕はどちらかと言うと放任なんです。子どもの意思決定に口出ししたくない。それっていうのは、もちろん「口出ししない方が子どものためになる」とも思っているのですが、「口出ししない方が楽だ」とも思っているからなんです。根が真面目ではないので、何事も、子育てにおいても、「何をどうしようとどっちでもいい」と思っている割合が強いです。なので、子どもに対してあまり怒らないし、結果的に「怒らないことがいいんだろうな」とも思っています。
怒る人っていうのは、真面目に取り組んでいるのでしょう。仕事をしていて怒る人というのは、仕事に対してそれだけ真面目に取り組んでいるからなのだと思います。子育てに関して怒るのは、子育てに対してそれだけ真面目に取り組んでいるからなのだと思います。スポーツに関して怒る人は、スポーツに関してそれだけ真面目に取り組んでいるからなのだと思います。
物事に対して、真面目に、前向きに、必死に、熱を入れて、取り組んでいれば、その物事がいざうまく行かなかった時の代償は計り知れないでしょう。その時に自分の許容範囲を針が振り切ってしまって、感情のままに当たってしまうのです。
ということは、どうしたらいいのか。距離を置いて物事に取り組めば良いのではないでしょうか。顔を近づけて具体的に対象を見るのではなくて、距離を置いて抽象的にぼんやりと対象を見るんです。
「それはここに置くべき」「こっちはあんな風にしなくちゃならない」「そっちはココが変だからこんな風にした方がいい」なんて感じで、気合を入れて物事をかっちりと決めてかかると、それが崩れた時にすぐに感情が許容範囲を通り過ぎてしまいます。
不真面目に「どっちでもいいや」と思うことができれば、いざ計画が崩れたとしても、想定外のことが起こったとしても、感情が許容範囲を通り過ぎることはありません。なぜなら、計画が崩れて想定が起こること自体が想定内だからです。
たしかに物事に対して真面目に取り組まなければ、いい結果を得ることは難しいのかもしれません。野球で結果を残そうと思えば、真剣に取り組むことが必要です。キチンと子育てをしようと思えば、教育資金も計画的につくらなければなりませんし、時間配分もあらかじめ考えておく必要があります。
仕事だって、計画通りに進めようと思えば、ミスをしないほうが良いに決まっています。ミスを犯せば犯すほど、当初の計画からズレていきます。ズレ幅が大きくなっていきます。
が、物事なんて、うまく予定通りに行かないことのほうが多いのではないでしょうか。計画していたことなんて、計画通りに運ばないことのほうが多いのではないでしょうか。そうでなくとも、今の時代はVUCAと言われています。VOLATILITY(変動的)で、 UNCERTAINLY(不確実的)で、 COMPLEXITY(複雑)で、 AMBIGUITY(曖昧)であるのが今の時代です。
そんな今の時代に、気合を入れて計画を立てて、そのとおりに運ぼうとすること自体がナンセンスなのではないでしょうか。
僕が仕事でもなんでも怒らないでいられるのは、物事を冷めた目で見ているからであって、さらに言えば、冷めた目で見て距離を置いている方が、柔軟に対応しやすいと思っているからです。熱心に取り組むのもいいですが、熱心に取り組むよりも、距離を置いていた方が、いざ計画通りに進まなかった時のリカバリーが効きやすい。こだわりが無いので、現状に囚われることも少なくなります。
僕はよく優しいとは言われますが、それっていうのは、お釈迦様のように慈悲の心があるとか、そういうことではないんです。結局は、人に対して優しくしていた方が自分のためになるっていう利己的な考え故になんです。距離を置いて感情に流されないでいたほ方が、変動性が高く柔軟性が求められる今の時代に合っている。うまくいかなかった時に怒るくらい熱心に取り組んでいると、囚われて対応が遅くなる。
確かに「怒りを抑える癖がついている」と言われればそうなのかもしれません。が、それは人間的に優れているからでもなんでもなく、「優しくした方が自分にとって有利だろうから」という邪(よこしま)な考えによるものだし、そのために善と悪、有利と不利、正義と不正、成功と失敗、なんてものの基準を曖昧にしているからなんです。
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ようやくできました。「妄想スナイパー理論」です。タイトルは「インパクトがある方が人目につくかな」と思って、こんなタイトルにしていますが、中身は「犯罪と非行をなくして、思いやりを育む方法」になります。
思いやりってけっこう、掴みどころのないものだと思うんですよ。昔から「思いやりを持ちなさい」とか「思いやりが大事です」なんて周りから言われることは多いと思いますが、「それって何なの?」と聞かれた場合や、「それってどういうこと?」と深く知ろうとした場合、それと「どうやって持つことができるの?」となった場合に、うまく答えられないと思うんです。
そこで、一つの具体案として、「スナイパーのようなものだと」というのを示したいと思います。スナイパーとは、遠くから銃で相手を狙う、狙撃です。思いやりとは、スナイパーのようなものなのです。もちろん、思いやりっていうのは頭の中のことなので、実際に銃なり狙撃なりはしませんが、遠くから狙うすスナイパーと思いやりっていうのは、似ています。
スナイパーと思いやりはどうして似ているのか。スナイパーと思いやりの間の共通点とは何なのか。スナイパーと思いやが似ているのだとしたら、思いやりを育むにはどうすればいいのか。そんなことを、この小冊子には載せてみました。35,222文字です。目次はこちらで公開しています。
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