事実なるものはなく、あるのは解釈のみ。東京女子医科大の訴訟記事を見て考えたい
「事実なるものはなく、あるのは解釈のみ」と言ったのはニーチェだと言われている。
警察官をやっていると、本当にこの言葉が突き刺さる。対立、言い合い、ケンカ、トラブルになっている人たちを多く見ることになるからだ。「同じ時間と同じ空間を共有していたのに、こうも意見が異なるのか」と感じる。
名探偵コナンの言葉で「真実は一つ!」なんて言うけれど、世の中にただ一つの真実があるとすれば、それは「真実は一つではない」ことなのではないか。
真実や事実というのは、客観性を帯びたものだ。誰が見ても同じように見えるもの。主観とはかけ離れて存在しているのが真実や事実なのであって、誰の主観も触れることができない。
一見、事実というのはそこかしこにあるように僕たちには見える。目の前にパソコンがあるのは事実だし、テーブルの上にコーヒーが置いてあるのは事実だ。ここはインターネットカフェのオープンスペースだし、今が6月だというのも紛れもない事実のように思える。
けれど、コップに入った水を見て「こんなに入っている」と思う人と「これしか入っていない」という人がいるように。世間で人気のある俳優を見て「格好いい」と思う人と「どこが格好いいの?」と思う人がいるように。同じアイドルを見て「可愛い」と思う人と「可愛いかなあ」と疑問に思う人がいるように、世間には事実のように見えて事実でないことがたくさんある。というか事実でないことばかりだ。
目の前にパソコンがあって、テーブルがあって、コーヒーがある。僕の目にはそう見える。けれど、もしもここに犬がいて、同じ光景を見ているとしたら、その犬は「パソコンがある」とも「テーブルがある」とも「コーヒーがある」とも思わないだろう。
ぼくは文章を書きたいと思っているから、パソコンが必要だしテーブルが必要だしコーヒーが必要なのだ。僕はパソコンもテーブルもコーヒーも欲しているから、そこにパソコンもテーブルもコーヒーもあるように見える。パソコンもテーブルもコーヒーも必要としていない、それらには何の興味も持たない犬がそれらを視界に収めたとしても、そこにあるのは「エサでないもの」という認識だろう。犬にとっては、パソコンもテーブルも犬も「無い」のである。
インターネットカフェのオープンスペースというのも疑わしい。僕はここをインターネットカフェのオープンスペースだと認識しているけれど、もしも今、僕の家族が僕に連絡をしてきたとして、「今インターネットカフェのオープンスペースで仕事をしている」と説明したとしたも、僕の家族には「必要のない場所」としか認識できないだろう。
僕の家族にとっては、インターネットカフェのオープンスペースというのは何の引っ掛かりにもならないものだ。ファミレスにいたとしてもファストフード店にいたとしても、同じように「必要のない場所」なのであって、それ以上の厳密さは関係ない。そんな僕の家族にとっては、実際に僕がいるのがインターネットカフェのオープンスペースだとしても、そんなものは存在しないのだ。
今が6月というのも、事実としては不安定だ。そこに客観性はない。もしも大部分の人の共通認識で事実というものが作られるのだとしたら、今は6月なのかもしれないが、当然、「6月」というのは西洋式の暦の読み方である。
今もいるのかどうかわからないが、アマゾン奥の未開発社会の原住民とか、インドネシアの森に住む現代社会(西欧社会)と接触したことのない人たちにとっては、今が6月ではない。彼らに「今は6月だよ」と伝えたところで、「はて、何のことやら」と不思議に思われるだろう。僕も今いるし、原住民も今いるのだから、同じ時間を共有していることに違いはないが、認識は別なのである。
ニーチェが言うように、まさに「事実なるものはなく、あるのは解釈のみ」なのだ。
ニーチェのこの言葉を「なんだそんなことか、どっちでもいいじゃないか」と思うのもよし。というのも、世界への認識が違ったところで、僕たちの生活には大した変化はない。認識が変わったとこで、お金が急に入るわけではないし。解釈のみと気づいたところで、明日食べるご飯がただで手に入るわけではない。
小さいと言えば小さいし。けれど、僕は意外とそうでもないと思っている。
さっき、読売新聞を読んでいたら、社会面に「副作用で死亡 賠償命令」という見出しの記事が載っていた。東京女子医科大で治療を受けていた女性が薬の副作用で亡くなり、これを意思が用法を守らなかったためだとして、遺族が損害賠償を訴訟で求めていたのだが、東京地裁は病院側の過失を認めたのだ。
この判決に対しては、僕はあまり触れないし、それでもいいのだと思う。けれど遺族は「真実を明らかにできた」と話したのだという。
「事実なるものはなく、あるのは解釈のみ」というニーチェの言葉がよぎる。たしかにニーチェの言葉をすでに知っていて、哲学的なこの解釈を十分に理解できていたとしても、遺族には裁判で争う以外の選択肢はないのかもしれない。
けれど「真実を明らかにできた」という言葉には、どこか独善的で、自己中心的な響きがある。判決でたどり着いたものは、本当に誰の目にも客観的に見える、主観とは相容れない「真実」なのだろうか。
「あるのは解釈のみ」を噛み締めたい。
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