優しさの鉄則! 自分ごととして考えられること

2019.12.08 (日)

人に対して優しくなるにはどうすればいいのだろう。相手に身になって考えられることが一つではあるのだが、それと同時にもう一つ。それは、自分ごととして考えられることなのだ。相手の身になって考えられることと、自分ごととして考えられること。同じことを言っているようで、別々のことのようにも聞こえる。別々のことを言っているようで、同じことのようにも聞こえる。要は、同じ視点で見ることだ。共通点を持って見ることだ。自分の身の回りの世界を、俯瞰の視点で見られるようになることだ。

 

 

そのときに、「相手の身になって考える」という主体を相手に持っていくことは容易に想像できても、自分ごととして考えるという「自分ごととして考える」という主体を自分に持ってくることは、優しさとして想像がしにくいのではないだろうか。自分ごととして考えることと、相手に優しく接すること。この繋がりが上手く見えない人が多いのではないか。相手の身になって考える事が大事なように、自分ごととして考えることも必要なのだ。

 

 

自分ごととして考えるとは、相手の身に起こったことを、「もしも自分に起こったら、自分はどう思うだろうか」を想像することである。相手のみに起こったことを、そのまま相手に身に起こったこととしてのみ考えると、その出来事のつらさ、しんどさ、面倒くささ、大変さ、などがわかりにくい。だから、「もしも、その出来事が自分の身に降り掛かったら」と仮定して考えるのだ。

 

 

けれど、これはなかなかできそうできない。やれてそうでやれていない、という代物なのだ。

 

 

たとえば今月になって、運転中の携帯電話使用に対する罰則が強化された。それについてはこちらを参照してほしいが、罰則が強化されたこと自体はどう思うだろうか。おそらく、「運転中の携帯電話使用に対する罰則が強化された」というニュースを見たり聞いたりすれば、多くの人が「やれやれ〜!」とまではいかなくても、「そうだ。強化すべきだ」と思うのではないだろうか。罰則強化に対して多くの人が同調、共感、賛成するのだと思う。

 

 

が、そんな同調は、運転中の携帯電話使用を自分ごととして考えられていないからだと私は思うのだ。手放しで罰則強化を「そのとおりだ」という人は、自分の身にも降りかかる現実的なこととして、罰則強化を認識していないのではないだろうか。どこか遠い世界の出来事。自分とは関係ない、一部の悪質な交通違反者、不良ドライバーに降りかかる災難、のように思っているのではないだろうか。

 

 

というのも、ネットニュースに対するコメントを見ても、「そうだ」という共感するコメントがほとんどなのだが、実際に携帯電話使用の違反者を捕まえて「違反なので切符を切ります」と申し向けると、とても心外であるような反応をする人がほとんどなのだ。

 

 

もしも運転中の携帯電話使用の罰則強化に対して前向きなのであれば、自分が違反をして切符を切られる場面になってのも素直に切られるのだと思うが、素直に切符を切られる人など、まずいないのだ。誰もが「ええ!? 今ので違反ですか!?」と、自分は携帯電話の使用などしていないかのような反応をするのだ。

 

 

罰則強化ということは、それだけ世間の目が厳しくなっている、ということである。そんな厳しくなっている運転中の携帯電話使用など、ちょっとであってもやるべきではない。なのに、実際に大事な要件があったり、悪い時では大事な要件すらなくても、携帯電話を運転中に取り出して使ってしまうのだ。その結果、警察官に捕まって声をかけられて、「ええ!?」のように心外そうな反応をするのだ。

 

 

それは、「運転中の携帯電話の罰則強化」というニュースを見た時に、自分ごととして考えられていないからではないだろうか。上の空の出来事ではなく、自分とは関係のない外国の話としてではなく、リアルな自分の身にも起こりうること。自分の身の回りの出来事として、ニュースを見た時にとらえていれば、警察官から声をかけられて心外そうな反応をすることもないだろうし、そもそも世間の目が厳しくなっている中でわざわざ運転中に携帯電話を使うことを控えたはずだ。

 

 

警察官から声をかけられた際に、イライラしたように、あるいは感情的になって「ええ!?」という反応は、優しさとは正反対の反応である。

 

 

世の中には、犯罪や非行があふれている。その温床は、まぎれもなくイライラである。イライラとは想像力の欠如であり、相手の身になって考えたれたり、相手のみに起こったことを自分ごととして考えられることである。個々の具体的な人や家庭でなく、社会という全体に、優しさが必要なのだ。安易に怒ったりせず、すぐにイライラせず、急に感情的になっりせず。穏やかに、寛容的に、物事を見つめられること。それには自分の偏見、バイアスに囚われない、自分も相手も一緒に見る俯瞰の視点が必要なのである。相手の身になって考えると同時に、自分ごととして考えるのだ。

 

 

 

 


 

 

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