なぜ路上のケンカでは柔道の「投げ」が有効なのか。それは感情があるからだ

2020.01.01 (水)

柔道の「投げ」について話そう。路上で「柔道の投げ」がいかに有効か、という話しである。

 

 

おそらく誰も言っていない。私独自の論点だ。始めに言っておくけれど、「下がアスファルトだから」とかそんなくだらない理由ではない。

 

 

テレビやインターネットでは総合格闘技が放送されているし、あるいは格闘技に興味のある人なら実際に生の試合を見に行ったこともあるだろう。それに男であれば「闘い」に興味のないものはいないと思うので、実際に何かしらの格闘技を習っている人もいるかも知れない。

 

 

総合格闘技では、柔道の投げは軽視されている。少なくとも、それほど大きなウェートは占めていない。柔道の投げ、相手をこかす技術。これらは、立ち技や寝技に比べて重要視されていないのではないか。

 

 

格闘技の試合を観戦していると、投げは立ち技と寝技を繋ぐ間(ま)のような存在でしかないように見える。総合格闘技のジムに通っても、本業としている人は別として、練習している人にとってはあまり眼中に入らないのではないだろうか。

 

 

総合格闘技のメインは立ち技、あるいは寝技であって、その他のものは、添付書類のような「ついてまわるもの」というイメージでしかない。言ってしまえば、「立ち技か寝技さえやっておけば、その他の技術はどうでもいい」みたいな。

 

 

けど改めて考えてほしい。どうして総合格闘技に、3つのフェーズがあるのかを。どうして総合格闘技の要素が3つに分けられるのかを。どうして総合格闘技の流れが、立ち技→投げ→寝技なのかを。

 

 

この「投げ」が重要なのである。多くの人が思っている以上に、この「投げ」というのは闘争において、大きなウェートを占める。大きなウェートを占めるのは、リングやマットの上、というよりも、路上での方が多い。

 

 

僕も総合格闘技はかじったことがある程度でしかないのだけど、総合格闘技の試合で「投げ」がどちらかというと脇役になるのに対して、路上では「投げ」というのはメインになることが多い。すなわち、「投げ」は大手になるのだ。相手をこかしたら終わり。地面に倒したら「詰み」である。ケンカは終了。投げたら「勝ったど〜!」なのだ。

 

 

どうして路上では、投げが大手になるのか。それは、人間には感情があるからだ。これは、リングやマットの上という「用意された場所」と、路上という「日常の中で突然やってくる場所」の違いでもある。

 

 

リングやマットの上であれば、それは闘う者にとってそこは特別な場所になる。精神的にも、日常とは全く別の扱いになる。

 

 

たとえば野球の試合をするのに、ユニフォームを着るのが恥ずかしいとか、バットを振るのが恥ずかしいなんてことはないだろう。それは、野球の試合をするのが野球場という特別な場所だからだ。たしかに普段の生活で野球のユニフォームを着るのは恥ずかしい。野球のユニフォームを来ての通勤通学なんてできない。けれど、野球場で野球の試合をするとなれば話は別だ。人々はこぞってユニフォームを着る。野球の試合をするのに恥ずかしさなんてない。

 

 

けれど、路上のケンカではそうでもない。路上のケンカとは、日常の延長なのだ。日常の中で恥ずかしいことは、できれば避けたいのが人間の感情なのだ。路上のケンカでは寝技は敬遠される。日常からかけ離れていて恥ずかしいからだ。

 

 

考えてもみてほしい。ギャラリーがたくさんいて、自転車や通行人が行き来するなかで、たとえ寝技の経験があろうとも、ポジションの取り合いや、技の掛け合いなんて、やっていられるだろうか。恥ずかしくてできないだろう。ガチな姿なんて周りに見せたくない。笑われてしまう。

 

 

仕事に行くのに、皆んながスーツを来てる中で一人だけ野球のユニフォームを着ているようなものだ。ビジネスバッグを持つ人の中で、一人だけ野球のバットを持っているようなものだ。恥ずかしくてできないだろう。日常の中での殴り合いでも十分に恥ずかしいのだが、寝技はもっと恥ずかしい。できればやりたくない。敬遠したいのが、寝技なのだ。ゆえに、「立ち技→投げ」の後に「→寝技」は、路上では滅多にない。投げられたら終わり。こかされたら、そこで「詰み」なのだ。

 

 

格闘技漫画「グラップラー刃牙」では、範馬勇次郎が「どうやって勝敗が決まるのか」について、確か「決着が着いた時の目線の高さ」と言っていた時があったが、範馬勇次郎のこのセリフは正しい。僕も賛成だ。

 

 

路上では転がされたり地面にはいつくばされると、「負けた」という気持ちがこみ上げてくる。客観的に不利な状況に目に見えるから、転がされることは回避したいのが人情だ。これが総合格闘技の試合であれば、「まだまだ決着はついていない」と思えるし、事実、そこは通過点に過ぎない。そこから寝技に突入するか、立って仕切り直しになる。

 

 

けれど路上では、「投げが通過点でしかない」という前提がない。地面に転がされていたら傍目には「負け」なのであって、「傍目に負け」「客観的に見て負け」というのが、路上のケンカで一番避けたいことなのだ。故に「投げ」は王手になる。投げられたら終わり。こかされたら、「詰み」だ。

 

 

僕は警察官をしていたから、路上で大立ち回りをしたことが何回かある。寝技どころか、殴り合いですら敬遠される。殴り合いをしたらお終い。相手に打撃を加えることは、あからさまに暴行なので、犯罪になってしまう。傍目にも、殴ったり蹴ったりしたら「暴力をふるっている」「悪いことをしている」ことが明らかだろう。

 

 

その点、「投げ」というのは、打撃に比べてどこか平和的、温和な雰囲気がある。あからさまに打撃を加えるのに比べて、「暴行をしている感」は緩和される。だから感情のある我々人間が、感情が大きなウェートしめる路上のケンカの中に身を投じられた場合、「投げ」は総合格闘技以上に重要なのだ。

 

 

寝技をするには、ギャラリーが見ているので恥ずかしい。打撃を加えるのは「悪いことをしている」ようではばかられる。だから、投げが有効になるのだ。やっていて恥ずかしくなく、「罪を犯している」感もそれほどない投げ。この有効性は、用意されたステージである試合と、日常の中に急に飛び込んで来る路上との違いが生むものでもある。

 

 

人間には感情があるので、路上のケンカでは柔道のような「投げ」がとりわけ有効なのである。

 

 


 

 

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