抽象的な見方と科学的な見方って同じか〜科学的とはどういう意味か
面白い本でしたよ。特に私は文系の道を歩んできたんで、言われていることに対して納得しましたし、なんだか恥ずかしさも感じました。言われていることはその通りなんでしょうね。文系と理系は対等ではない、ということです。
文系と理系ってのは一見、対等のように見えますが、そうではありません。文系と理系を、それぞれ天秤に乗せたらちょうど釣り合うのかというと、そうではないんです。というのは、ベクトルがあるんです。文系の人間は理系科目から逃げた人間であるのに対し、理系の人間は文系科目から逃げたわけではない、という事実です。
私も逃げた人間なんですよ。高校時代は数学などの理系科目から距離を置いて過ごしました。初めはそんなに苦手意識はなかったんです。中学の頃は、英語と比べて少しは点数が少ないけれど、平均点くらいの点数は取れていたんです。
で中学生の頃、私は夢を持っていました。それは、「ロボットコンテストに自分も出たい」っていう夢です。高専高校の学生たちが、5〜6人のチームを組んで、お互いに作ったロボットで対戦するゲームです。制限時間内に、枠の中にどれだけロボットでボールを入れられるか、とか。
それをやりたかったんです。テレビで見て「楽しそうだな」と。想像していたんです。5〜6人のチームを組んで。コントローラーを手に持って。仲間とあーだこーだ話しながら。戦略を考えて。ボールを枠の中に入れるのに成功して喜んで。失敗して落胆して。
何より自分たちで作ったロボットが動くってことが純粋にすごかったですよ。それを、自分とそんなに都市の変わらない人たちがやっている。自分の手の届く範囲の人たちが自分たちで作ったロボットを動かしている。目の前のテレビに映っている人たちは、自分よりかは年上だろう。それでもおそらく「大人」よりは若く見える。そんな年齢的には自分と同じカテゴリーに含まれるような人たちに組み立てられたロボットが、離れている場所でちゃんと指示通りに動いっているっていうことがたまらなかったんです。
なんか、手の届く範囲にこんなに面白そうな世界があるのか、と思ったんです。「自分もあの世界に行ってみたい」って思ったんです。
だから何か特別に勉強したのかって言えば、そうでもなかったんですけどね。深く道のりを考えていたわけではありませんでした。計画立てていたわけではありませんでした。「行きたいなぁ」「行こうかなぁ」程度です。そのロボットコンテストに出ていたのは、高専高校の学生っていうところまでは分かっていました。高専高校の学生であること以外にも出場資格ってあるのかとか全然分かっておらず、とりあえず高専高校の学生ってのになれば、あんなことができるのかなぁって思っていたんです。
で、中学三年の時の三者面談で、高専高校について話していた記憶があります。私と担任と母親で、進路について話をする中で高専高校について教室で話をしていたんです。その場で話したのか、それともあらかじめ先生に伝えていたのか、記憶はありません。が、先生もにこやかに「距離的に進学できそうな高専高校」について情報をくれていたと思います。
私自身も、距離的に進学できる高専高校を3校くらい、ピックアップしていたはずです。「入試が受かりそうか」なんてことはよく分からなかったし、「入学した後はどうなる」なんてことまでは、考えていませんでした。ただ目の前の分かれ道を「こっちに行こうかな」程度です。
でも、結局は行かなかったんです。私は普通科の高校に進学しました。父親に反対されたんです。数学の点数が気になるみたいでしたね。どっちかっていうと、教育熱心な方だったと思います。中学校で教員やってましたし。小学校の頃から、ずっと宿題以外にも勉強をさせられていました。
思えば、小学校の頃は怒られながら勉強していましたね。家で宿題に四苦八苦した記憶はないので、学校から難しい宿題は出ていなかったのだと思います。ただし父親の用意したドリルをこなさなきゃならなかったんです。
その中で特に算数がわからなくてですねぇ。距離と時間の問題とか。父親も怒るんですよね。家で怒られ、それと車の中ででも怒られていました。買い物に行く途中なんかで車の中にいると、ゲリラ的に質問が飛んでくるんです。車を運転していて、なんか思いつくんでしょうね。それを私に答えさせて、私が答えられないと修羅場になるんです。
とまあ、そんな父親だったんですが、その父親が高専高校に進学するのを反対したんです。「お前は数学の点数が低い。周りに数学が得意な人間がいる中で、自分一人だけ不得意な状況に耐えられるのか?」みたいなことを言われたんです。
私も進路について深く考えていなかったし、父親に反論しない性格だったので、それで普通高校に進学したんです。別に「夢を諦めた」っていう感覚はありません。ただ、父親から普通科の道を示されたからそっちに進んだだけです。
だから、当時はそれほど行きたかったわけではなかったのかもしれません。ただ、色々な選択肢がある中での一つ。他にも部活とかプレイステーションとか、色々と熱中していたものはありましたし。
でも、ここまで書いておいて何ですが、確かに父親の判断っていうのは分からなくもないかな、とも思います。当時は「頑張って子どもを大学に行かせること」が世の中の流れになっていたんでしょうし。「大学まで進学させれば子どもは幸せになる」とか「大学までお金を出せばクリア」みたいに思っていたのでしょう。
父親自身も人生のどこかで、周りに才能がある人間がいる中で自分だけ不利な状況ってのを経験していたのかもしれません。それで私に惨めな思いをして欲しくないって考えていたのだとは思います。思いがあるが故の厳しさだったんでしょうね。
そんな昔のことを、この本を読んでいると思い出してしまったんです。「文系と理系」っていうワードが頻繁に出てくるんで。この本には。
この本には、科学的に物事を考えなければならないって書いてあるんです。それは、文系の人も科学などの理系分野を見て見ぬ振りをするのではなく、せめて距離を置く態度を改めた方がいいっていうことです。
不利になるそうなんです。それっていうのは、「理系科目はこんなにも面白いですよ」という楽観的なものではなく、「理系科目を理解していないと喫緊の危険が生活の中でありますよ」というものです。この本が書かれたのは、東日本大震災の影響で原発が世論で騒がれている時でした。そんな背景で書かれた本、ということあって、原発をめぐる例がよく出てきます。
科学的に物事を考えるのはどういうことかというと、客観的に、感情的にならずに、よく分からないことも理解しようとして、だそうです。震災直後に原発をめぐる中で、テレビのコメンテーターが原発の技術者に対して「難しい事は抜きにして、危険か危険じゃないかだけ言ってください」なんて言うのが、「科学的に物事を考える」とは対極にある態度だそうです。
それで、思うんですが、この「客観的に」とか。「感情的にならずに」とか。「よく分からないことも理解しようとして」とか。私が普段言っていることと一緒なんですよね。私、よく言っているし、コラムやセミナーでもそんなことを言っているんです。
抽象的に世の中を見ましょう。具体にとらわれないようにしましょう。主観一辺倒にならず、客観的な視点まで想像力を広げましょう。視野が広がって相手に対して「〜するべき」がなくなるし、優しくなることができますよと。大人が優しさとか寛容さを持てば、その中にいる子どもも非行に走ることがなくなりますよと。
だから、結局一緒だったんですよね。なんか、巡り巡って結局は理系的な頭にも、私は足を突っ込むことができたのかなと。高校進学の時に理系とは違う方向に進んだ私ですが、結局は近いところに今、いるのかなと。あの時に理系と文系の分かれ道があって、文系の道を進んだ私ですが、道はいつの間にか理系の道とも近いところに行き着いているのかなと。いやもしかしたら、ずっと近いところを歩んできていたのかもしれませんね。文系と理系の分かれ道の先、周りには色々な誘惑があってお互いにどこを通っているのか分からなかったけれど、私が歩んでいた文系の道のすぐ隣に、理系の道もあったのかもしれませんね。
だから、そんなに理系と文系で分ける必要はないってことでしょう。著者も言っています。はっきりとした線を引けるわけではないと。理系の中にも、文系よりの理系があるし理系よりの理系ってのがあるのそうです。私も数学は苦手ですが、同じ理系でも化学とか地学とかは、それほど拒否反応が起こりません。もっと柔軟に考えるべきなんでしょう。
子どもへの接し方についても少しだけ、述べられています。子どもの興味を奪うようなことがあってはならない、と。著者はもともと国立大学にいた公務員の先生でして、その後で小説家に転身したっていう経歴の人です。大人にだって先のことは何も分からないし、何も分からない中で子どもの夢を奪うことっていうのは、必要のないこと。というか、無責任なことなんでしょう。
子どもと大人、どっちが分かっているのかというと、結局はそれすら分からないんですよね。確かに大人っていうのは、人生経験をたくさん積んでいます。子どもよりもたくさん積んでいます。子どもよりも、人生のアドバンテージが20年も30年もあるんですよね。
だけど、その20年30年になんの意味があるのかというと、それほどないのかもしれません。20年30年かけて積み上げた知識、視野、考え。それらがこの先も有効かというと、そうも言い切れないんです。難しいところですよね。うまくいかないところです。視野を広げようとして身につけた未来予測。その未来予測が正しければ正しいほど、今度はその未来予測に縛られることになるんです。
世の中には、頭の固い大人がたくさんいます。いわゆる「常識」に縛られている人たちです。でも、その大人たちも、固くなろうとして固くなっているわけではないんです。おそらく同じように、頭の固い大人たちを見て「ああはなりたくない」って思った結果なんです。頭が固くならないようにした結果、頭が固くなってしまったのです。
人は誰しも、幸せになりたいんです。幸せになりたいから、勉強しようとするし、先のことを少しでも予測しようとするし、視野を広げて広く世の中を見ようとします。で、実際に視野を広げられるのでしょう。先のことも少しだけ予測できるようになるのでしょう。でも、今度はその成功例に縛られちゃうんでしょうね。成功例が大きければ大きいだけ、未来予測が正確であれば正確であるだけ、幸せになれたならば幸せになれた分だけ、とらわれてしまうんでうよね。
だから、自分がやっていることなんて正しいかどうか分からないんですよね。よく自信満々にものを言う人がいるけれど、あれって嘘だと思います。断定して言うくらい自信がある人。それっていうのは、人を騙そうとしているか、無責任か、それか視野が狭いだけでしょう。視野が広ければ、誠意があれば、断定なんかできません。無責任にならざるを得ません。無責任というか。責任感があるからこそ、無責任に思われるような態度になるんです。
世の中は絶えず流れていきます。川が山の中のせせらぎから始まって、車でないと渡れないような橋がかかる大きい川に成長していきます。光り輝いているように見える星々も、その光っていうのは何光年も昔に発せられた光です。地球に来るまでにずっと宇宙を飛んできたんでしょう。宇宙自身も大昔に爆発のように始まったと言われています。その爆発で広がっている宇宙の中に、地球があって日本があって、人間社会があって、です。
だから人間一人が下す判断なんて、ちっぽけなものなんんでしょう。なんと小さい。大きな流れの中の、ごくごく一部でしかないんです。何が起こるかは分からないし、どの選択が正しいなんてわかるわけがありません。
だから、その時その時で思う選択が、結果的に見ればリスクの少ないものなのかなと思います。少なくともその選択をした時点では、正しいと思っているし、一番幸せを感じる選択。それで十分だし、それが結局は他の選択肢に劣らない、むしろ幸福度を増す選択方法なのかもしれません。
文系も理系も、そんなに分けて考える必要はないし。そんなに別れているものではありません。別れたと思っていても、いつの間にか同じような道を歩んでいるし。全く別々のところを歩んでいると思っていても、実はごく近いとい頃を歩んでいるのかもしれません。で、それすらも宇宙の流れの中では、とるに足らないんです。
さて私の子どもは将来、分かれ道でどんな選択をするのでしょうか。
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