優しさとは、ただのゲームだ(その2)

2019.08.10 (土)

私の高校時代、「応援練習」というのがあった。私の高校には、まだ「バンカラ」の風習が残っていたのだ。バンカラとは、突き詰めれば、外見は粗野で内面を磨く、といったものだろう。「『しごき』を耐えてこそ、『男』になれる」のである。男子校であり、入学すると新一年生には応援練習が待っているのだ。朝、登校時間よりも早めの登校を促され、体育館に集められる。そこで、応援練習という儀式が行われる。体育館に並ばせられる新一年生たち。その体育館に、「応援団」と呼ばれる10人弱の集団が入ってくる。入ってくるなり、その集団の長である応援団長が「おお、声出し始めろ」と、新一年生に向かって声をかける。そこから新一年生たちは、「声出し」と呼ばれるものを始めるのだ。しきりに空中、自分の斜め上方に向かって「『押忍!』と声をかけ続ける」という陵辱。

 

 

2000人ほどの新一年生の列の中を、我が物顔で大股でゆっくりと歩き回る「応援団」の面々。声出しで喉が温まったら、いよいよ応援練習の本番である。校歌を歌うのだ。ここで読者諸君は「歌う」と聞いてカラオケをイメージされたかもしれない。繁華街のカラオケボックスで、友人たちや同僚たちと好きにストレスを発散させるカラオケをイメージされたかもしれない。が、それはとんでもない間違いである。校歌を歌うとは、歌うことによって逆にストレスを溜め込む行為なのだ。その高校に入ってまだ2〜3日しか経っていない新一年生。彼らは校歌をまだはっきりと覚えていないのだ。しかも、歌わなくてはならない校歌は一つではない。10個ほど、種類があるのだ。校歌に加え、通常応援歌、三年生の卒業時や試合に負けた時に歌う図南歌、野球部の歌、剣道部の歌……。そんなものを入って間もない新一年生たちが、大声で歌わなくてはならない。

 

 

ここで重要なのは、「覚えてきているかどうか」だ。覚えてきていれば、自信を持って大きな声を出して歌えるが、覚えてきていなければ、歌詞も分からないし歌いようがない。覚えてきているかどうか。それは「『やる気』があるかどうか」と判断される。入学式当日に、実は歌うべき校歌全てが録音されたCDを、新一年生は渡されているのだ。その歌を覚えてきているかどうかが試される。覚えてきていないもの、つまりやる気のないものにはどんな仕打ちが待っているか。戦時中も、戦争に対してやる気のない非国民には、憲兵からの罰が待っていたというが、この応援練習もそんな感じ。連れて行かれるのだ。「歌を覚えてきていない」あるいは「恥ずかしい」などの理由で大声で歌えない、声が出ていない新一年生は、応援団に連れて行かれるのだ。

 

 

新一年生の列の中を大股で歩く応援団。彼らの役割は、声が出ていない新一年生を探すこと。戦時中の、街中を歩いて非国民を探す憲兵様のように、彼らは「声が出ていない」新一年生を探す。もし見つけたら、憲兵がそのものを連れて行って、処罰を与えるように、応援団も処罰を与える。どんな処罰なのか。いわゆる「恥ずかしめ」だ。「おお、お前、前行け」と言って、応援団は新一年生の中から対象をピックアップする。

 

 

本を探している人が、本屋の本棚の中で、欲しい本をピックアップするように。夕飯の食材を買いに来た主婦がスーパーで、買うべき食材を商品棚の中からピックアップするように。幼児がおもちゃ屋で、買って欲しいおもちゃをピックアップするように。応援団は、対象の一年生をピックアップするのだ。そうして連れて行かれる「前」とはステージ上である。列の中で声が出ていなかったものは、「気合が足りない」ので、今度は大勢の前で声を出させられるのだ。そんな応援練習と呼ばれる、朝に新一年生が体育館に集められる行為は、確か2週間ほど続いた気がする。ちなみにその高校は私服の高校だったが、新一年生は夏休みが来るまでは中学校時代の制服を着ていなくてはならない。なぜか。一目で新一年生だと分かるように。校内で先輩とすれ違う際は、挨拶をしなければならなかったのだ。挨拶は「お疲れ様です」でもなく、「こんにちは」でもなく、「押忍」だ。先輩から返す挨拶は「よし」。その高校では校内で「押忍」「よし」の声が響き渡るのが風習だし、何やらあるべき理想の姿なのだ。

 

 

とまあ長く書いたが、優しさとは、そんな根性論や精神論で論ずるべきものでもない。根性などなくてもオッケー。気合いなど入っていなくてもオッケー。引きこもりで、体が弱くて、声が出ない。そんな人間でも、優しくなれる。

 

 

優しくなるにはどうすればいいのか。仲良くなればいいのだ。仲良くなってさえすれば、厳しいことも言えなくなるだろう。これも高校の時の話だが、交流試合というのがあった。一年から三年まで、各クラス別にチームを作って試合をするスポーツ大会。ソフトボールやバスケやバレーなどがある。これが、なぜか乱闘上等という雰囲気なのだ。3年生が1年生に対して暴力を振るうのが黙認される交流試合なのだ。見ている先生も「やり過ぎるなよ」というばかり。先に書いた応援練習や、この交流試合を乗り越えてこそ「我が校の生徒」らしい。

 

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