子どもの非行を防ぐ鉄則! 比べてはならない
大きい括りで言えば、「教育とは何か」ということになる。「教育とはなんであろうか」と考える人は大勢いるだろう。お母さんだって、お父さんだって、会社員だって、フリーターだって、これまの人生で教育を受けてきた人たちだ。そんな、自分たちが受けてきた教育を振り返り、「どういう教育がよかったか」「どういう教育がだめだったのか」などと自分なりに思いを馳せる機会は少なくないだろう。
一つの鉄板として、「決して詰め込み式ではないのではないか」というのが、多くの人が持っている認識だと思う。教育とは詰め込み式ではないのだ。レンガを一つ一つ積んでいくように教育を考えるべきではない。というのも、それだと「どれだけ詰め込むことができたか」「どれだけ積むことができたか」に意識が集まることになる。どれだけ効率的に詰め込むことができるか、どれだけ根性を持って積むことができるかなど、自分で新しい分野を発見することが無くなってしまう。「与えられた中で最善をさがす」みたいな、極めて受動的なものになってしまう。教育とはそれでいいのか。そんな、いかにゲームをクリアするか、のようなものであっていいのか。
そんなものではないはずだろう、教育とは。教育には、もっと自分で発見する要素がなければならない。「詰め込むかどうか自体を考える」とか。「レンガを積むフィールドを考える」とか「レンガを積むかどうか自体を考える」とか、自分で考えて、悩んで、発見して、決断して。そんな正解のないものに飛び込む要素が必要なのだ。ゆえに、失敗は無くてはならない。「考えて、悩んで、発見して、決断して……」には、失敗がつきものだろう。というか、失敗がなければ前には勧めない。失敗があるから、決断の前に考えて悩むのだろう。そういう意味では、「どれだけ失敗したか」という失敗の多さが教育には必要となってくる。
この「考えて、悩んで、発見して、決断して……」が、詰め込み式とは決定的に違うところは、他人と比べることができない、という点だ。「どれだけ漢字を書けるか」「どれだけ本を読んだか」「どれだけ進んだか」などの詰め込み式は、人と比べることができる。自分がどの程度の位置にいるのか、他人はどの程度できているのか、そんなことが簡単に分かるのだ。けれど、「考えて、悩んで、発見して、決断して……」は、他人など関係ない。見るべきは自分の中である。自分の内側である。
だから、「子どもに対して正しい教育をしているかどうか」「子どもに対する接し方が間違っていないか」「子どもに対する習い事は実際、どうなのか」などが気になるのであれば、それが人と比べられる要素があるかどうかを考えるといいのではないか。人と比べることに重点が置かれているのであれば、道を間違えている可能性がある。「あの人と比べて進んでいる」とか「この人と比べて遅れている」とか、そんな比較ができるものなのであれば、その習い事なり教育は、間違えている道を進んでいる可能性が高い。
教育とは、やはり発見することなのだろう。新しい価値観を発見する要素が強いものが、進むべき教育なり習い事の道なのだろう。「自分は何が好きなのか」「自分には何が向いているのか」「自分は誰に対して能力を使うべきなのか」などを発見するのが、教育なのだろう。自分を分かるようになることが、教育なのだ。
「自分は何が好きなのか」「自分には何が向いているのか」「自分は誰に対して能力を使うべきなのか」に、他人は関係あるだろうか。「自分は何が好きなのか」「自分には何が向いているのか」「自分は誰に対して能力を使うべきなのか」を問うのに、他人と比較はできるだろうか。そんなものできるはずもない。だいたい他人なんか関係ない。
子どもの教育が上手くいったかどうか、それは、教育を受けた自分のみが分かることである。内面の問題だからだ。他人と比べることができないから、客観的に判断することができないのである。客観的に判断しようとすると、それは他人と比較できるようなものしか判断の対象にできなくなる。他人と比較できないものは、判断の対象から外れることになってしまう。教育の成果とは、客観的に判断できないのだ。
もしも子どもの教育で、子どもの習い事で、悩んでいるのなら、他人と比較するような目で子どもを見るのは避けたほうがいい。「他人と比べられるフィールドを選ぶかどうか」すら、子どもが自分で決めるものなのだ。自分で選ぶべきだし、その過程で失敗も多くするだろう。けれど、失敗をするからこそ学ぶのだ。「間違った道を選んだ」と自分で経験したからこそ、糧になるのだ。失敗したかどうかは、親や教育者が決めるものではないし、どれだけ親や教育者が伝えようとしたところで伝えられるものではないだろう。
教育とは、積み込み式ではないものである。ヒントは、他人と比べられるかどうか。発見があるかどうか。自分できめているかどうか。そんなところだろう。
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そこで、一つの具体案として、「スナイパーのようなものだと」というのを示したいと思います。スナイパーとは、遠くから銃で相手を狙う、狙撃です。思いやりとは、スナイパーのようなものなのです。もちろん、思いやりっていうのは頭の中のことなので、実際に銃なり狙撃なりはしませんが、遠くから狙うすスナイパーと思いやりっていうのは、似ています。
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