非行対策のためにも、客観的な判断を意識して持とう

2016.02.06 (土)

「学校不要論」をよく聞きます。

 

「今の時代、学校に無理していく必要はない。」という話です。

 

「学校が子どもに合わなかったら、行かなければいい。ITが発達している今の時代、他にも勉強の手段はいくらでもある。義務教育と同レベルの教育を学校以外でするのだってできる。画一化されてない分、より子どもに合った、義務教育以上のレベルの教育ができるかもしれない。

 

大学だって有名大学に入る必要はない。大学で学生は勉強しておらず、レジャーランドでしかない。そこで学ぶことに意味はない。

 

小学校、中学校、高校、大学と続くレールから脱線したとしても、それは人生の脱線ではない。レールの上を歩いてきた平凡な経験よりも、紆余曲折の経験の方が、人生において価値がある。成功もしやすい。」

 

学校不要論は正しいと思いますし、学校になじめなかった子どもも活躍できる社会というのが理想だと思います。もし仮に「うちの子ども、学校に行きたがらないんです」なんていう相談を受けたら、私だったら学校不要論を持ち出して相談者をなだめると思います。

 

ですが、それを自分の子どもに言えるかと言ったら別です。自分の子どもに「嫌なら学校に行く必要ない。行かなくていいよ。」と簡単に言えるでしょうか。

 

私は言えません。この先、言える日が来るのかもしれませんが、今の時点ではまだ言えません。

 

というのも、自分の子どもと考えた場合、やはり学校に行くことのメリット、学校に行かないことのデメリットが鮮明に浮かんでくるのです。

 

学校は子どもにとって都合がいい場所に思えます。適度に運動して、基礎学力をつけて、集団での社会を勉強して、感性を身につけて、給食も食べさせてもらえて、思い出を作れて・・。社会に出る土台を養ううえで、学校は非常に効率的だと思うのです。

 

小、中、高、大学と続くレールに乗らないと、どこか脱落の烙印を押された感があります。それに、学校に変わる代わりの教育を提供する、もしくはその場所を探すには、相当なエネルギーが必要なはずです。

 

少し離れた場所から客観的に見れば、学校は不要な場所かもしれません。ですが「自分の子どもなら」と近くに見た場合、どうもデメリットばかりが浮かんでくるのです。

 

「自分の子どものことなど、身近なことに関して、人は客観的な判断ができない」という例でした。身近な問題を扱う時こそ、離れた場所からの視点が欠かせませんね。

 

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