幸福の要素としての個性〜自由論
まさかこの言葉が出てくるとは思わなかった。けど確かに言われてみれば、これほど関係する2つの言葉もあるまい。完全に盲点で、今までは全然意識してこなかったけれど、テリトリーが重なり合うほどに、この2つの言葉は互いに関係しあっている。
「個性」と「自由」である。
自由論というタイトルの本を読んで、個性が論じられるとは思わなかった。なるほど、たしかに自由がなければ個性は生まれない。自由とは多様性を認めることである。自分が嫌だと思うもの、自分が嫌いだと思うもの、自分が悪いことだと思うもの。それを容認するのが、他人の個性を認めることなのだ。
他人の個性とは、自分にとってはなかなか認めづらい。「これだけは受け付けられない」と、ついつい線を引いてしまう。けれど、個性とは他人からは認められなくて価値なんて無さそうに思えるものだし、そうであるからこそ尖った個性と言えるのだ。
「個性のジレンマ」と言えるかもしれない。個性とは他人からは認められないものであり、他人から認められないからこそ「個性」と言える。
「他人から認められない」ということは、糾弾の矢面に立つ運命を背負っていることになる。尖っていれば尖っているほど、周りからは何の価値もないように思えてしまう。いやむしろ邪魔な存在だと思われてしまう。邪魔だと思われるから個性だし、他人から「無価値」の称号を与えられるから個性だし、他人からは価値がわからないから個性なのだ。
大勢から称賛され、「自分にもわかる」とか「共感できる」なんて言われる個性は、その時点で個性としての魅力を失っていると言える。その個性は際立っていないし、尖っていないからである。
共感する人が増えれば増えるほど、個性としての価値はなくなっていく。
「日本のマチュピチュ」とされる兵庫県の竹田城。
ここも初めは観光客が少なくて「隠れた名観光地」だったが、観光地としても魅力が広く伝わって観光客が押し寄せるようになると、途端に観光客であふれかえり、観光地としても魅力を失っていったという。
これは、たとえば「隠れた名店」にも言えて、誰にも広まっていないうちは隠れた名店にも「味がいい」以上の価値があるが、大勢に美味しさが伝わって大勢が訪れるようになると、その魅力は半減してしまう。
個性のジレンマは、隠れた名観光地とか隠れた名店と同じようなジレンマなのだ。
自由論の第三章は「幸福の要素としての個性」というタイトルになっており、その内容は、「個性を発揮するには自由が必要だよ」というものだった。
これには前提として、「人生を幸福に生きるには個性が必要だ」ということが必要になる。
時々見かける「子どもに自信をつける」方法として、「何か得意なものを見つける」というのがある。子どもをうまく成長させるには子どもに自信をつけさせることが大切であって、そのためには「得意分野を見つけるのがいい」というのだ。
たしかに子どもを非行に走ったりせずに素直に成長させるにあたって、得意分野を見つけるのは大切だ。人よりも優れていることを自覚できれば、どんなにその範囲が狭くても「自分が一番できる」という優越が子どもの自信を支えるだろう。
けれど僕が思うに、「一番」というものも、個性の中の一つなのだと思う。「個性」という名の枠があって、「一番」というのはその中のごく一部でしか無い。
槇原敬之氏が「ナンバーワンでなくてオンリーワン」と歌った歌がかつてあったが、正にそのとおりである。人はわかりやすいナンバーワンを目指したがるが、世の中にあるものはなんでも一番が分かるような具体的なものばかりではない。
自分にしかできない考え、自分だけが興味のある趣味、自分だけが良いと思っている価値観。そんな個性は、自分だけが良さを知っているので、ライバルは誰もいない。マーケティングでいうブルーオーシャン。尖った個性は、それだけでナンバーワンでもあるのだ。
尖っていない個性であれば、共感する者も多く、ライバルも多いことが予想される。オンリーワンを見つけられなければ、ナンバーワンにはなれない。
逆に言えば、オンリーワンを見つけられればそれはすでにナンバーワンである、とも言える。「一番であること」とは、尖っているものの中の一つでしかない。一番であることは、席が一つしかないわけでなく、見方が違う一番が多数存在することになる。「違う方向からの見れば席が一つ見える」というのがいくつも存在する状態なのだ。
「ナンバーワンでなくオンリーワン」の考え方は、多様性、共存、平和、という概念と相性がいい。「一番も個性の中の一つ」という見方を身に着ければ、世界はもっと異質なものに対して寛容的になれるだろう。
第一章 はじめに
第二章 思想と言論の自由
第三章 幸福の要素としての個性
第四章 個人に対する社会の権威の限界
第五章 原理の適用
自由とは何か。個人の自由に対する社会の制限はどこまで許容されるべきなのか。
「人間が個人としてであれ集団としてであれ、他の人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られる場合ということである。文明社会では、相手の意に反する力の行使が正当化されるのは、ほかのひとびとに危害が及ぶのを防ぐためである場合に限られる」
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