同じ勉強をしてい、なぜ差がつくのか?「自分の頭で考える子」に変わる10のマジックワード
なぜ差がつくか
同じ勉強をしているのに、どうして差がついてしまうのか。
その答えは、著者は「自分で考えているかどうか」にあるという。普段から自分の頭で考え、身の回りのものを咀嚼して考える癖のある子どもは、生活全てが学びになるのだという。
どんなに子どもが学校に通っているとしても、学校での生活は一日に8時間ほどでしかない。つまり、学校にいる時間よりも学校にいない時間の方が多いのだ。自分の頭で考えることができない子どもは、学校での時間しか学びにならない。あるいは学校の時間でさえ学びにはならない。
それに対して自分の頭で考えることができる子どもは、寝る時間以外全てが学びになる。学びの時間が、自分の頭で考えることができない子どもにくらべて圧倒的に大きいのだ。
この本では、子どもに自分で考えることをうながすマジックワードとして
「なぜ(原因分析力)」
「自分はこう思う(自己表現力)」
「どのようにするべきか(問題解決力)」
「要するに(抽象化思考力)」
「例えば(具体化思考力)」
「楽しむには?(積極思考力)」
「何のため?(目的意識力)」
「そもそも(原点回帰力)」
「もし〜ならどうする?(仮設構築力)」
「本当?(問題意識力)」
を紹介している。これらのマジックワードを子どもに対して効果的に使うことにより、子どもの考える力を促そうというわけだ。学校以外の時間も考えられる力を身に着け、寝る時間以外の全ての時間において学べるようにしようというのだ。
「考える力」は、ガラスの向こう側にある
この本の著者の考えとは違うが、僕なりに「自分で考えること」に対する考えを書こうと思う。
よく「自分で考えろよ」なんて事を言っている人がいるが、冷静になって考えるとこの言葉に意味はない。「自分で考える」とは、「自分で考えろよ」なんて言われてなるものではないからだ。「自分で考えろよ」という言葉に「自分で考えること」を促すだけの力はない。
なぜなら「自分で考える」とは、完全に自発的な行為だからだ。もしも「自分で考えろよ」なんて言われて「あ〜でもない」「こ〜でもない」なんて考え始めたのなら、それは自分で考えたことにはならないだろう。多分に「自分で考えろよ」と言った人の影響が入ってしまっているのだ。
「自分で考えろよ」と言った人の顔色をうかがって、その人の都合のいいように問題を解決しようと思考が働いてしまう。しかも人から促されているので、深くまで潜って考えることができない。
「自分で考える」とは、他者の声掛け、他人の影響といったものを、限りなく排除した向こう側にあるものなのだ。
そう考えると、もしも子どもに対して「自分で考えてほしい」とか「自分で考える子どもになってほしい」と思っているのなら、親は自分の影響を限りなく消すことが求められるのではないか。
たとえば夏休みの自由研究でアサガオの観察をしている子どもに対して、この本で書かれているように「なぜアサガオの観察をするの?」なんて聞いたところで、やらされている感があれば、子どもの素直な答えは「宿題だから」でしかない。
自分で考えることは、自分が興味のある分野でしか成り立たない。子どもに「自分で考えるようになってほしい」と思うのであれば、それは子どもが興味のある分野でしか自発し得ないのである。
興味のない分野の勉強をしている子どもに対して「なぜそんなことをするの?」とか「どのようにするべきだと思う?」と聞いたとして、まともな答えが返ってきたとしたら、それは忖度以外のなにものでもない。子どもが考えている風なのであれば、それは聞いた側の身上を推し量ろうとしているのである。
「自分で考える」とはガラスの向こう側のできごとであり、周りの親にとっては、自分で考えさせようと思っても為す術もない。目の前に「自分で考えるようになってほしい」と思う子どもがいたとしても、決して手出しができないのだ。
だから子どもが自分で考えるとは、前提としてその子どもが興味のある分野でしかありえないものだと思っている。もしも親が「この分野で、自分で考えられるようになってほしい」という希望を持っているとしたら、上記のようなマジックワードは本当に意味がない。ただ他人の心情を推し量ることを子どもに植え付けるだけになる。
しかも、マジックワードでの声掛けですら意味がない。自分の興味のある分野であれば、親が促そうとすること以上に、子どもは物事を自分なりに深く考えているからである。いくら「なぜ?」とか「どうして?」なんて子どもに声をかけようと、子どもが自分で「なぜ」とか「どうして」という問いにたどり着くことには敵わない。
親は余計なことをしない方が良いのだと思う。自分で考えることを促そうとしてマジックワードを使ったとしても、その時点で子どもの思考を親側に引き込むことになる。声掛けをした時点で、子どもの自由な考えを阻害したことになる。マジックワードといえど、所詮は視野が狭くなってしまった大人が固定的に考えたもの。子どもの自由な発想の邪魔はしない方が懸命なのだ。
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