わかってないなあ、そうじゃないんだよ。マウンティングのスパイラルに気付こうという話
「昔バスケ部だったんですよ」
職場の同僚と飲んでいる時、僕は何気なくそんなことを言った。話の流れは忘れたけれど、目の前に座っている職場の先輩もバスケ部だったことを知っていたので、なんとなく「話のネタになるかな」とか、そんな軽いのりだったと思う。
そうしたら返ってきた言葉がこれだ。
「お前、バスケ部ったってどの程度なんだよ」
つまり目の前に座っている先輩は、かなりバスケをやり込んでいる人だったのだろう。それに対して僕は見るからにバスケをやり込んでいる風体ではない。そんな僕はバスケとしての腕前を下に見られて、「そんなお前と一緒にするな。オレはお前よりもバスケをわかってるんだよ」という感じだったのだ。今風にいうと、「マウンティング」である。
こんなこともあった。
僕は本を読むのが好きで、哲学関係の本も読んでいる。僕としては哲学が好きだ。別に大学の哲学科を出たわけではないし、他の分野にもれず、この哲学という分野にもモンスター級の人たちがいるのは知っている。だからといって、僕がそのレベルではないにしろ、「哲学が好き」というセリフを吐くのは別に構わないだろう。
この間、「よく本を読んでいる」という話の流れから、「最近は哲学関係の本が好きで読んでいます」という話を人にしたところ、思いっきりマウンティングされてしまった。
「『●●入門』なんて本はまだまだダメですよ」
「哲学が人生の役に立つと思ってるんですか?」
「●●も読んでないんですか?」
こんな感じである。
おそらく先方は、哲学に対してそれなりに読んでいるという自信があったのだろう。そのうえで、僕の程度を値踏みされたのである。特に「哲学が人生の役に立つと思ってるんですか?」っていう言葉が気になる。そっちだって「役に立つ」と思っているから、気になって読んでいるんだろうに。
それなのに大御所ぶって、「自分はここまで哲学を読んできたけれど、結局は『人生の役に立たない』っていう境地に達したよ」みたいなこと、言わなくていいのに。「好き」なら「好き」って言えばいいのに。「気になる」なら「気になっている」って言えばいいのに。冷めたふりして「自分はそのレベルはとうに越しているよ」なんて雰囲気、出さなくていいのに。
哲学なんて、倫理のご近所みたいなもので、「正義とは何か」とか「善とは何か」とか「人生をどう生きたら良いのか」なんてことを考える分野だと思う。そんな「考えること」に特化することが哲学の本懐だろうに、それなのに哲学を勉強していても人に対してマウンティングしてしまうものなのか。
というか、哲学という分野は、お互いに程度がわかりづらい分、マウンティングしたくなるのかもしれない。お互いが何を考えているのか。お互いがどの程度の哲学レベルなのかなんて、目に見えないので分かりづらい。そんな環境だと、人はわかりやすい階級を求めるのかもしれない。
このマウンティングは、どうすれば世の中から消えるのだろう。人間関係の元凶だと思う。
人間関係が嫌になったり、「言わなければよかった」なんて後悔するときって、思いつく限りほとんどがマウンティングされた時だ。当たり前だけど、マウンティングされて快楽を感じる人はいない。マウンティングされれば誰もが不快を感じるはずだ。
なのにどうして人は話の中でマウンティングしてしまうのか。マウンティングさえなければ、人間関係が悪くなることが大幅に減るだろうに。マウンティングさえ無くなれば、「人前で話すことが苦手」なんて人も大幅に減るだろうに。
僕が思うにマウンティングしている人は、自分がマウンティングしていることに気付いていないのではないか。マウンティングしている人の心の中は、「アイツわかってないなあ」とか「お前、そうじゃないんだよ」って感じだと思うので、それっていうのは、相手の間違いを訂正する行為である。
けれどそれって言うのは、結局は価値観の押しつけだ。バスケにしろ哲学にしろ、相手が自分よりもレベルが下だからといって、口に出すことを許されないことはない。レベルが低い人は自分の好みを口にできない、なんてことはない。どんなにレベルが低くたって好きなものは好きでいいじゃないか。
プロじゃなきゃ「好き」とは言っていけないのか? 学者でなければ「勉強している」と言ってはいけないのか? 賞をもらってなきゃ「やっている」とは言っていけないのか?
そんなことはあるまい。どの程度の人だって思う存分、好きなものは「好き」と言うべきだし、気になるものは「気になっている」というべきだ。
だいたいレベルなんてものは、どこまでいっても切りがないものだ。メビウスの輪であって、上には上がいる。警察組織だってそうだ。警察組織には階級による上下関係があるけれど、階級の上には結局は警察以外の一般市民がいるのである。
警察も、どんなに階級を上げていってもいつまでたってもふんぞり返って仕事ができるようになるわけではない。階級をどんなに上げていっても、市民の声とか世論を気にして仕事をしなくてはならないのだ。「オレだって階級を上げれば」と思っている人は、階級を上げたところで変わらない。できる人は階級に関係なくできるものだ。
つまり、レベルや程度や階級を気にするな、ということである。自分とは違う価値観の相手を下に見ることなく、同じフロアにいる同程度の相手として見よ。そのうえで、相手に「わかってないなあ」とか「そうじゃないんだよ」なんて言って正そうとせず、それはそれとして認めるべきなのだ。
知らずしらずのうちにしているマウンティング。「自分もしているかもしれない」という気付きが、根絶への一歩である。
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