「怒る」と「叱る」はどう違うのか。「お前のためだ」の自己矛盾

2020.03.15 (日)

僕が好きな著者に、細谷功さんがいる。細谷さんの本は本当に面白い。素通りしてしまうような、だけど指摘されれば「確かにそのとおりだ」と思うような「世の常」を、面白おかしくシンプルに説明している。ライターとか編集者とか、細谷さんの本に関わる人の一人ひとりがいい仕事をしているから、センスのいい本が出来上がるのだと思う。

 

 

もっと注目されても良さそうな著者だと思うけど、アマゾンのレビューはそれほど伸びていない。これほど面白い本のレビューが伸びていなくて、その横で「うまく宣伝された」感じの本のレビューが伸びて売れている状況を見ていると、「世の中ほんとうに間違っている」と感じる。

 

 

僕のバイブル「やわらかい頭の作り方(細谷功著)」なんて、電子書籍化すらされていない。この本をスマホに入れて常に持ち歩きたいが為に、自分で紙の本から電子書籍にする裁断機とスキャナを買おうかどうか検討中である。

 

 

さて、細谷さんの本に「自己矛盾劇場」というのがある。

「『人の悪口を言うな』という悪口」

とか

「『具体的に言え』という抽象的な指示」

など、自己の中で矛盾が発生している状況。それと、そんな自己矛盾に多くの人が気づいていないという滑稽さをうたった本である。

 

 

チャップリンの名言に「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だ」というのがあり、前のめりになって向き合うと悲しくなってくるほどのことでも、距離を置いて冷めた目で見ると滑稽に見える、ということだ。もしも人生を悲しく感じていたり、悲しく感じるほどでなくとも「なんだか疲れたな」と思うのであれば、自己矛盾劇場を読むのをおすすめする。

 

 

自分の中にも気づかない自己矛盾があるのに気づくはずだ。自己矛盾なんかは一生懸命になっているときに起きやすい。この本を読めば、一生懸命になっている自分が滑稽に思えて、一歩上から余裕を持って自分やその周辺を見直すことができるようになる。

 

 

この自己矛盾劇場であるが、第23章は

「『あなたのために言っている』〜教育自体に宿る自己矛盾」

となっている。素人であっても自分が通って来た道であるが故に一言いいたくなるのが、「教育」という分野である。しかし悲しいかな、だからこそ教育は自己矛盾の温床になりやすい。

 

 

職場ではどこでも、「若手の早期教育」とか「一刻もはやい戦力化」なんてのが叫ばれていると思う。上司や先輩は部下の成長を促すために口を酸っぱくして色々と言っているが、当の部下本人はうるさそうにふてくされた顔をしているのは、時代を越えて繰り返されているあるあるだろう。

 

 

そんなときに上司や先輩から出てくる言葉が、「お前のために言ってるんだ」である。誰でも言った経験があったり、喉まで出かかった経験があるのではないか。細谷さんは、「『お前のために言っている』というセリフは、自己弁護のために言っているという自己矛盾」と指摘する。「自分でない相手のためだ」と言っておきながら、実は「自分のため」だったのである。

 

 

言う上司としては少しでも耳を傾けてもらいたいが故の「お前のために言ってるんだ」であるが、じゃあこのセリフを言われたからといって、言われた部下が「ああ、先輩の言葉は自分のためのものだったんだ」と悔い改めて言動を変えるのかと言うと、そうではない。「また何かうるさいこと言ってるよ」と、にが虫を噛み潰したような顔をするだけだろう。

 

 

言う上司も、「お前のために言ってるんだ」と言ったところで、本当に部下が改心するなどとは初めから思っていない。そこにあるのは部下に対する苛立ちだ。「こんなにもお前のことを思っている」というニュアンスのことを言わないと、なかなかわかってもらえない部下と接していくうちにやっていられなくなるのだ。そう考えると、「お前のため」と言いつつ、その正体は自分への言い聞かせの要素が強く、『「お前のために言ってるんだ」の「お前」とは、自分のことなのではないか』という自己矛盾が成り立つ。

 

 

相手が子どもでも部下でも、教育において「『怒る』と『叱る』違いは何か」というのがしばし議題に上がる。SNSの投稿にあったのだが、「怒る」は間違った教育の仕方であり許されないのに対し、「叱る」は許されるのだという。「怒るとは自分本位で、叱るとは相手本位な行為」なのだそうだ。

 

 

が、自己矛盾劇場の視点からすれば、この「『叱る』は相手本位な行為だ」という考え自体が、すでに自分本意であるように感じる。というのも相手にとってみれば、「怒る」でも「叱る」でも、圧を加えられて考えを改めるように迫られていることに変わりはなく、「『怒る』と『叱る』は違う」というのは、相手に圧を加える自分に対する自己弁護の色合いが強いセリフのように感じる。ついつい相手に圧を加えてしまう自分に対し、「これはしょうがないことだ。仕事である以上は必要なことだ」と言い訳をしつつ、正当化して自己弁護する。そうでもしないとやっていられないのだろう。

 

 

「怒る」と「叱る」に違いはない。どちらも相手に圧を加えて考えを変えるように迫るやり方に変わりはない。「いいや、同じではない。『叱る』のは相手のためだ」というのは自己弁護でしかなく、まさしくそこにあるのは自己矛盾劇場なのだ。

 

 

 

 

 

 


 

 

 

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