セネカの「怒りについて」を読んで 自信がついた!という話

2020.03.14 (土)

 

最近、僕はサイモン・シンの「代替医療解剖」という本を読んだばかりである。コラムにも書いたが、この本は現代西洋医療以外の医療をバッサリと切ってしまおう、という内容である。現代西洋医学以外の医療のことを代替医療と呼ぶのだが、その代替医療を検証してみよう。腹をかっさばいてみようというのが、この本であった。

 

 

現代西洋医療とは、科学的根拠に基づいた医療のこと。科学的根拠のキモは、主に臨床試験である。薬や治療方法など、本当に効果があるのかどうか試してみたい対象を、それを投与するグループと投与しないグループに分けて経過を観察する。

 

 

たとえば新しく開発した甲薬。この甲薬が本当に効果があるのかどうか試したい。「効果は本物だ!」と声を大にして言えるようになりたい。だったら被験者を集め、条件をできるだけ同じにしたAグループとBグループに分ける。Aグループには本当に甲薬を投与する。Bグループは投与したことにする。そうして、本当にAグループの症状が改善するのかどうかを確かめるのである。

 

 

これが臨床試験のざっくりとした説明だが、代替医療をこのふるいにかけるのだ。鍼は本当に効果があるのか。ホメオパシーは? 瞑想は?

 

 

で、代替医療解剖という本は、全体としては「科学的根拠は重要だよ」という流れになっている。

 

 

この「代替医療解剖」は本当に面白かった。直でためになる。僕たち日本人の身の回りには鍼が身近にあるし、病気にかかれば西洋医学でもなんでも、ワラをもすがる思いだからだ。だがこの本を読めば、体の不調を感じてすぐに鍼や灸の門をたたく前に、ワンクッション置くことができるようになる。限りある金や時間を有効利用できるようになる。

 

 

「科学的根拠は生活に重要だし、生活するうえで必須である」と、僕は代替医療解剖を読んで学んだはずだった。

 

 

が、早速その考えを覆させてもらう。というのも、この「怒りについて」の怒りに対する分析が素晴らしいからだ。感情という、目にも見えないし手でも触れないものに対して、実に細かく的を射て描写しているのだ。

 

 

「怒り」とは何だろうか。人から「怒りって何?」と聞かれて、あなたは何と答えるだろうか。ムカムカすること? 顔が赤くなること? それとも血がブクブクと沸騰すること? あまいあまい、描写があまい。それでは相手の頭の中に何も浮かばない。「怒りって何?」という問いの答えとしては不十分だ。

 

 

セネカは「怒りについて」の中で、怒りをこう定義する。

「怒りとは、不正に対する復讐の欲望である」

‥‥どうだろう。ドンピシャではないだろうか。「怒りとは何か」と考えて普通であれば、ただただ、ムカムカとかブクブクとか、そんなモヤッとしたものしか頭に浮かばないのに対して、セネカは怒りをこうまで細かく適確に分析・定義しているのである。

 

 

この本で、セネカは怒りをコントロール可能なものだと言っている。

 

 

よく僕たちは、怒りを始めとする感情について「制御不可能」であると感じていないであろうか。悪口を言われれば腹が立つし、親しい人が死ねば悲しくなるだろう。目の前で漫才ネタを披露されたら楽しくなるし、いい本に出会えれば晴れ晴れしい気持ちになる。

 

 

この感情とは勝手に心の底から湧き上がるもので、一切がオートマチック。「手をくだせる代物ではない」と思っているのではないだろうか。けどセネカに言わせればそれは違うのである。感情は制御できる。どうやって制御できるのか。理性で制御できるのだ。

 

 

理性とは、物事を筋道立てて考えることなので、筋道を立てて物事を表現する「言葉」で表すということだ。僕なりの解釈もずいぶん入っているかもしれないが、怒りは言葉で制御可能なのである。

 

 

怒りとは、不正に対する復習の欲望なので、何かを「不正だ」と思う一番初めの「起こり」はしょうがないのかもしれないが、であれば、それを大きくせずに、小さいままにしておくことは可能だろう。それは、物事に対して不正だと思う基準を曖昧にすることだ。

 

 

細かい人や厳格な人、神経質な人というのは、物事に対する基準が厳しい。特別に細かい人でなくとも、自分が好きな分野、自分の興味の対象というのは、細かく厳格に見てしまう。こだわりが生まれるのだ。

 

 

このこだわりを捨て、物事を曖昧に見て、「何が正義で何が不正か」という基準をウヤムヤにすることで、怒りが大きくなるのを防ぎ、コントロールが可能になる。

 

 

とまあ、こんな主張をセネカは「怒りについて」の中でしているのだが、ではここでこんなことを僕は思ってしまった。「セネカのこの主張には、エビデンスがあるのだろうか」と。確かにセネカの主張は素晴らしい。現代人の僕たちの心をも掴むエネルギーがある。が、果たしてセネカはどういう根拠があって、「怒りは制御可能」とか「復讐の欲望である」などと主張をしているのだろうか。

 

 

もちろん、セネカの主張に根拠はない。セネカが生きていたのは、紀元前6年頃から西暦60年頃にかけてである。科学革命よりも1500年も昔なのだ。科学的根拠などあろうはずもない。統計が取れている主張でもない。現代のようにインターネットは存在せず、飛行機や車で遠くまですぐに移動ができるわけでもない。大勢の人から根拠となる統計が取れるわけが無い。

 

 

それでもセネカの主張には人を引きつけるものがあるし、真実であろうと思わせる説得力がある。エビデンスもないのに。どうして!

 

 

これは間違っているのは僕たちの方で、僕たちは具体に囚われているのだ。最近はなにかと「エビデンス」という言葉が必要とされている。方向性を示せば「エビデンスは?」と聞かれ、一言でも主張すれば「具体的な根拠は?」と上司からツッコまれ、自分の意見を言うのも一苦労である。

 

 

思うにこの「エビデンス」とか「科学的根拠」というものがあれば良いのかというの、そうでもないのだろう。僕たちは本屋に行くと、タイトルに「エビデンスに基づいた」とか「科学的根拠のある」とか「脳科学者による」という、いかにも土台がしっかりしていて人を安心させるようなセリフが並べられているに気づく。実際に著者が科学者だったりエビデンス重視の人だったり統計学を引き合いにしている人であれば、そのような本は売れるのだろう。

 

 

が、これらの本はタイトル止まりである。僕ごときが言うことではないのかもしれないが、内容に引きがないのだ。僕も以前に「脳科学に基づいた子育て」とかなんとかいう本を読んだことがある。本屋に平積みされていて、目に入ると同時に手にとってしまった。

 

 

「脳科学に基づいた」とは、なんとも人を安心させる言葉だろう。この言葉を聞いて、「これは信用できる」「これこそが真実だ」と思わない人はいないだろう。僕もそう思った。

 

 

そして僕は確かにその本を読んだのだが、内容を覚えていないのだ。「脳科学に基づいた子育て」なる本を読んだ記憶はあるのだが、脳科学に基づいて著者は子育てをどうしろといっているのか、すっかり記憶に残っていない。エビデンスに基づく本とはタイトル止まりなのだ。大抵の場合、「その本を買う」以上にその人を動かせることはない。

 

 

エビデンスや脳科学や科学的根拠は、正しいことを言っているのかもしれない。けれど、だからといって人の心を動かせるのかというとそうでは無いし。社会を変えられるのかというとそうでも無い。

 

 

それに比べ、セネカの「怒りについて」である。科学的根拠が無いのに、2000年という膨大な時間を越えて、古典として今も読みつがれている。「不正に対する復讐の欲望である」という定義は、令和という時代に生きる僕の心をつかんで離さない。科学的根拠もないのに、統計的に示されたわけでもないのに、である。

 

 

しかもこのセネカは、その時代の皇帝から流刑の刑に処せられている。都会であったろうローマから追い出され、どこか辺境の地に隔離されてしまったのだ。つまり、一人の時間が長かったのだ。修行僧のような状態だったのかもしれない。誰とも口をきかず、というか流刑の間は話をする相手がいなかったので、おそらく一人でこの怒りについての論理体系を作り上げたのだろう。

 

 

星々の運行や重力については、手軽に実験で確認することができない。アインシュタインは思考実験で相対性理論を思いついたというが、セネカに至っても頭の中の思考実験によって、この時を越えるような言葉を紡ぎ出したのだ。そこにあるのは、インターネットを使って膨大な量を相手にして統計でもないし、最新の脳科学による研究データでもない。あるのは、一人の頭の中だけ。まさかの「サンプルは自分ひとり。以上」である。

 

 

僕たちは何かを主張する際に、あるいは生きるにあたって、自信が無くなる時が無いだろうか。テレビやネットでは、学歴や肩書きのあるお偉いさんが、さも科学的根拠に基づいていそうな主張を述べている。人を説得するには十分だし、事実そんな主張に視聴者はひきつけられる。

 

 

それに比べて自分はどうだ。科学的根拠を示せるだけの頭もないし、膨大な統計データをとれるだけの分析力もない。自分には何もない。自分には人を信用させるだけのモノをもっていない。自信が無くなるときがないだろうか。

 

 

だが、人を安心させるだけの保証のようなエビデンスや、人の心を掴むだけの資格のような科学的根拠や証拠が無くても、十分に人の心を掴むことは可能なのだ。セネカのように。

 

 

インターネットもない、科学もない、移動も制限されている。そんな時代に生まれたセネカでさえ、時を越えて膨大な人の心を動かすような作品を作っているのだ。

 

 

自分には何もない? 知識がない? 資格がない? そんなものはフェイクだ。エビデンスに騙されるな。科学的根拠を崇拝するな。脳科学を信用するな。そんな言葉は、結局は表面的な、マーケティング上のテクニックでしかない。本物はもっと曖昧で、科学的根拠で裏付けできるようなものではない。「これが根拠です!」と示せるような具体的なエビデンスなど持っていないものだ。

 

 

エビデンスも何もなくてもいい。自分一人の思考実験で十分。自信をもつのだ。

 

 

 


 

 

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