「お先に失礼します」の違和感。平等を求めるのは自然な権利だった

2020.12.13 (日)

社会人と学生では住んでいる世界が違う。

 

 

たとえば服装。毎日スーツを着て出勤しなければならないというのは、学生の時には考えられなかった思考ではないか。自分の父親なんかを見ていて、「社会人というのはスーツを着て出勤するものだ」というイメージを持っている学生はいるだろう。けれど、それはスーツを着て出勤する社会人を外側から見ている状態。

 

 

自分が内側に入ると、「社会人たるもの毎日スーツを着て出勤しなきゃ」と思うようになる。少なくとも、本心では嫌かもしれないけれど「スーツを着なければ失礼になる」という気遣いを考えるようになる。

 

 

それこそが「住んでいる世界が違う」という意味だ。見ている世界が変わるだけではまだ不十分で、思考回路そのものが変わってこそ「世界が違う」と言える。

 

 

学生と社会人で住んでいる世界が違う例では、他に「お先に失礼します」がある。退社するときの決まり文句だ。他の同僚よりも先に変える場合は、周りに一言「お先に失礼します」というセリフを述べなければならない。

 

 

僕はこの言葉が不思議でならなかった。受け入れられる中に表れる違和感。そのセリフだけどこか異世界から来たものであるかのような異物感。

 

 

「お先に」はわかるけど、どうして「失礼します」などと言わなければならないのか。「失礼します」では、何か悪いことをしているみたいではないか。周りの同僚よりも先に帰ろうとすることはそんな悪いことなのか……。

 

 

ところでアメリカの法哲学者ロナルド・ドウォーキンによると、「平等に扱われたい」という欲求は、人間にとっての自然な権利であるらしい。

 

 

「原初状態の基礎には自然的かつ抽象的な権利があって、それは ①基本的自由(思想・信仰、言論・集会・結社など)への権利と、 ②「誰もが平等に配慮され尊重されたいと求める権利」である。」

—『あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン (講談社現代新書)』住吉雅美著
https://a.co/5361hy2

 

 

ビジネス本なんかを開くと、仕事や人生がうまくいく考え方として、「平等ではないことを自覚する」なんてことを紹介している。世の中には不平等が転がっていて、それを感受するのが賢い生き方だというのだ。

 

 

これは僕も真理だと思っていて、平等というのは絶対に実現しない。

 

 

これは世界平和のようなもので、あっちを立てればこっちが立たないものである。中国と東南アジア、アメリカと中東、お互いに利害が異なるので、どこの国にとっても不満のない状態というのは実現できないだろう。必ずどこかに不満の種がくすぶる。不満がたまれば「攻撃してでも」と思うようになり、国の首脳陣の頭を好戦的な考えが占めていくようになる。赤ん坊の相手と一緒で、人間はいつまでも優しくばかりしていられないのだ。

 

 

平等も絶対に実現しないもの。国どうしの利害関係が一致しないように、平等の基準も一人ひとりで一致しない。皆んなに共通の基準というのは1つしかあり得ないのに、Aという基準に合わせようという人もいれば、Bという基準に合わせようと考えている人もいる。

 

 

たとえば生活保護。生活保護という制度は果たして平等だろうか。肯定的な人もいれば否定的な人もいるだろう。生活保護制度に肯定的な人は、皆んなが横並びになることを平等だと考えている人だ。生活能力の低い人を底上げして、誰もが同じ目線で社会を眺められるようにすること。それを平等と呼ぶと考えているのだ。生まれ持っての環境の差を認め、そこをならした上での競争には問題がないと考えている。

 

 

生活保護制度に否定的な人は、与えるものを横並びにしなければならないと考えている人だ。意図的に皆んなを同じ目線にしようとするのではなく、今現在もっているものに関係なく皆んなに同じものを与える。その結果として同じ目線になろうとならなかろうと、そこは関係ない。生まれ持っての環境の差には目をつむり、努力を評価する考えだ。

 

 

同じにそろえることを平等と呼ぶのか、それとも与えるものを同じにすることを平等と呼ぶのか。どっちが正解ということはなく、どちらも平等と呼べる。どっちに基準を持っていくかは、個人の価値判断の違いでしか無い。無理に結論を出そうとすれば趣味の問題に行き着く。平等というのは決して実現しないものである。

 

 

世の中は決して平等でない。平等なんて実現できない。にもかかわらず、それでも平等を望むのが人間なのだ。

 

 

僕は今まで、「お先に失礼します」という言葉を意味のないものだと考えてきた。「お先に失礼します」というセリフや態度を、バカにしてきた。というのも、先に退社することにためらいを持たせるような言葉だし、ためらいを持つことが「当たり前」であるかのようなセリフだからだ。退社時間にまで平等を当てはめようとするような愚かさを感じる。

 

 

仕事が終わった者から退社することは本来、後ろめたさを感じるものではない。周りに合わせるようなことなどせず、次々に仕事をこなして終わらせていくほうが、効率的なじゃないかと。「足並みをそろえるのを強制されていて、それができない(周りに合わせることなく早く帰ろうとしている)自分はちゃんと謙虚さを持っていますよ」とでもいうような卑屈な態度。これは日本人特有の消極的な気持ちの代表ではないかと思ってきた。

 

 

で、論理的に考えると「お先に失礼します」という態度、つまり先に退社することは悪いことではないのに、感情的にそうは思えない自分を不思議に思ってきた。

 

 

「終わった人間から帰るのは効率的でいいじゃないか」とは本心から考えられる。なんべん、どう考えても仕事が終わった人間から帰った方が無駄がない。なのに、同僚よりも先に帰ろうとすると後ろめたい気持ちがでてくる。槍で刺されるような無言の痛さを勝手に感じてしまう。堂々と胸を張って帰ろうとしても、感情の奥底では胸を張りきれていない自分がいる。

 

 

同僚が早く帰ろうとしているときは、逆にイライラしてしまう。「ズルい」と思ってしまう自分がいる。「仕事が終わったのに他人を待っていることに意味はない」とか「終わった人間から帰るべきだ」と思考の末にたどり着いても、いざ自分よちも早くかろうとしている者がいると、「チッ」と舌打ちをしたくなる。

 

 

論理と感情がズレてしまうのだ。

 

 

「お先に失礼します」

 

 

いくらシミュレートしても、仕事にとってあるいは組織にとって、周りに合わせることにメリットはない。退社時間を平等にそろえる必要はない。帰れる者から帰った方が休める。「仕事を早く終わらせよう」というモチベーションにもなる。仕事がないのに残っていたも、残業がつくだけ。悪ければそれすれつかない。だったら仕事が終わった者から帰るべきだろう。

 

 

なのに感情はそうはいかない。早く帰ろうとしている者を忌む気持がフツフツと湧いてくる。自分が早く帰ろうとしている場合も、やましさを感じる。

 

 

この気持ちのズレはなんなのだ。どうして思考と感情でズレが生じるのだ。早く帰ったほうがいいと思っておきながら、それでも生じる背徳感とイライラ。デカルトの心身二元論か。

 

 

これは何なのだ。

 

 

で、これに対する答えが「平等に扱われたいと思う気持ちは、人類の自然な権利だからしょうがないよ」なのだ。

 

 

ここでロナルド・ドウォーキンの言葉が生きてくる。

 

 

「原初状態の基礎には自然的かつ抽象的な権利があって、それは ①基本的自由(思想・信仰、言論・集会・結社など)への権利と、 ②「誰もが平等に配慮され尊重されたいと求める権利」である。」

—『あぶない法哲学 常識に盾突く思考のレッスン (講談社現代新書)』住吉雅美著
https://a.co/5361hy2

 

 

「お先に失礼します」はどうしようもないことなのだ。人間である限り仕方のないことなのだ。赤ん坊の笑顔を見て愛しく思ったり、死人を見て恐怖を感じるのと同じ。人間にあらかじめ備えられた、敵わないものなのだ。神様と同じで手が届かない。

 

 

だから、いくら論理と感情のズレを正そうとしてもできるものではない。早く帰ろうとする者に対するイライラ、自分が早く帰る時の背徳感を消そうとしても消えるものではない。いくら論理的な道筋を通って考えようとしても無くならない感情なのだ。

 

 

人間は平等を望む生き物であって、それは退社時間という世俗的な問題にとっても例外ではない。退社時間の違いという細かいところにまで平等を求めてしまう。これは人間の性(さが)なのであって、いくら思考で制御しようとしても制御しきれるものではないのだ。

 

 


 

 

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