潔癖症と非潔癖症、交通違反者と警察官。構造主義とはスレ違いだ

2020.12.12 (土)

「男と女はすれ違うもの」とはいうけれど、男と女どころではない。人生は事あるごとにすれ違いだらけである。

 

 

例えばうちの家庭。僕は汚れをそれほど気にしない割に、妻は潔癖症である。以前、テレビで潔癖症芸人というのを見たけれど、まさにあんな感じ。見えない菌やウィルスが、妻には見えているらしい。

 

 

最近ではコロナウィルスに対する知識が広がってきたため、事あるごとに手洗いや消毒をする人が増えてきた。店頭の入り口にはアルコール消毒のスプレーが必ず置いてある。けれど僕の妻は、そんなアルコール消毒や手洗いを10年前から日課にしているのだ。

 

 

10年前から、ファミレスに入ってまずすることは徹底したテーブルや椅子の消毒だった。妻は3種類のウェットテイッシュを携帯している。自分の手を吹く時のウェットテイッシュ。テーブルや椅子などを拭くためのウェットテイッシュ。それから口に入れる箸やフォーク、食器類を洗うためのウェットテイッシュ。拭く対象によって、それらを使い分けている。

 

 

マスクが携帯必需品になった最近では、マスクの取り扱い方で僕は妻に事あるごとに指摘を受けている。妻に言わせるとマスクはフィルターのようなものなのだ。息を吸う度に細菌などがマスクの外側に張り付く。

 

 

ゆえに妻はマスクの外側を、犬のうんこでもついているかのように毛嫌いしている。絶対に触らない。マスクを外す時は、指の先で接触部分を最低限に保持しつつ触る。一度外したマスクはすぐにゴミ箱行き。一度外したマスクを再度つけることは決して許されない。

 

 

そんな妻を見て、僕は小学校の頃に読んだ、国語の教科書を思い出す。二人の少年が、木の枝についている柿を取ろうとしている。一人は木に登って柿を地面に落としていて、もう一人は落ちてきた柿を拾っている。そのうちに、柿を拾う側の少年が足を滑らせて池に落ちてしまう。転んだ少年は、木に登っている少年に助けを求める。

「落ちたよう」

木に登っている少年は、上方にある柿を取ることに夢中だ。下を見ようとしない。

「落ちたら拾えよ」

転んだ少年はさらに訴える。

「池に落ちたんだよう」

木に登っている少年はなおも下を見ようとしない。

「池に落ちたのは放っておけよ」

 

 

教科書に載っていたこの文章はすれ違いを表したものだったけれど、なぜか今でも覚えている。当時の僕にとっても、普段の生活の中でスレ違いを感じていたのかもしれない。

 

 

ケンカというのはスレ違いだ。僕は警察官をやっていた中で交通違反者と何度も言い合いをしてきたけれど、警察官と交通違反者の主張というものもなかなか溝が埋まらない。漫画「ベルセルク」では、現世(うつしよ)の世界に重なるように存在する幽世(かくりょ)の世界というのが描かれていたけれど、警察官と交通違反者はお互いに現世と幽世に別れているのかもしれない。

 

 

交通違反の取締りをしていてよく言われる文句はこうだ。「なんでオレばっかり取締りを受けるんだ。他にも違反者はいるじゃないか。不平等だ」と。

 

 

けれど警察官側の言い分もわかってほしい。確かに取締りは決して平等ではない。同じように違反をしても捕まるドライバーと捕まらないドライバーがいる。いくら「違反をしなければいいだけだろう」とはいえ、交通切符を切られるドライバーと切られないドライバーに分かれてしまうのは、平等とはいえないだろう。けれど、警察官だって限られた時間と人数で仕事をしている。すべての交差点で常時目を光らせているわけにはいかない。

 

 

違反者の「取り締まる前に警告すればいいじゃないか」という意見も聞く。

 

 

けれど、取締りはペナルティーを与えるから効果があるのだ。「警告すればいいじゃないか」というのなら、道路標識が立っているので十分な警告になっているじゃないか。確かに一時停止標識の近くで隠れて見ている姿は卑怯に見えるかもしれないが、ペナルティー無き警告なんて意味がない。犯罪だって、裁かれる犯罪者がいるから「犯罪をしないようにしょう」という抑止力が働く。交通違反も、実際に切符を切るから道路標識が意味あるものになるのだ。

 

 

とまあ、世の中はスレ違いばかりなわけだけれど、僕たちは最低限、この世がすれ違いに満ちていることはわかっている。

 

 

汚れを気にしない僕と、潔癖症の妻。柿をとることに夢中の少年と、池に落ちた少年。交通違反者と警察官。お互いに立場が違うので、見えている世界が違う。「どちらが正しいか」とか「どっちが間違っているのか」というのはこの際どちらでもよくて、「同じものを見ていても意見が異なるのはしょうがない」というのは共通認識である。

 

 

このスレ違いが共通認識というのは、実は昔からあることではない。最近になって共通になった認識である。

 

 

1960年代、構造主義という思想が芽生えた。世の中には様々な社会集団があり、僕たちは必ずいずれかの社会集団に属している。僕たちの認識できる世界は属している社会集団に依存していて、僕たちは思ったほど主体的に物事を見られているわけではない。社会集団が気にしないものは僕たちの目には入らないし、社会集団が大きくとらえたものは僕たちには重要に映る。

 

 

「スレ違いが発生している」あるいは「スレ違いがある」という認識は、構造主義の思想によるものなのだ。

 

 


 

 

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