哲学を外から見るとどう見えるのか〜科学を語るとはどういうことか

2020.11.23 (月)

 

 

面白かった。

 

 

哲学に対するモヤモヤを綺麗サッパリに吹き飛ばしてくれる本だった。「やっぱりそういうところ、疑問に思っていていいのね」と、普段の自分を許せるようになった。

 

 

僕は哲学が好きでよく本を読んでいる。別に大学で哲学科を専攻していたとかではないんだけれど、哲学の本って根本を探るみたいな感じで好きなのだ。現実の世界は目の前に広がっているんだけれど、それらの現実に一つ一つつながる根っこの部分、それを論じているような気がして。

 

 

文学も、社会学も、物理学も、数学も、突き詰めて考えていくと哲学的根本が1つの終着駅になると思っている。だから、哲学を勉強したり、哲学的な考えごとをするというのは、「なぜそうなの?」「なぜそうなの?」「なぜそうなの?」と繰り返していった結果見えてくる世界の話なんだと思っている。

 

 

けれど同時に、「哲学って何の役に立つんだろう」「やっていて意味があるんだろうか」と疑問に思う自分もいる。2500年ほど前に古代ギリシャで始まった哲学は、未だに同じ疑問を繰り返し問題にしている。

 

 

「人間はどこからどこへ行くのか」「僕たちはどうやって生きればいいのか」など。時代が違うから、何世代にもわたって問題にされるのは仕方のないことなのか。あるいは元々大きすぎるテーマだから絶えず問題のテーブルにあるのは仕方がないことなのか。いつまでも答えが出る様子がない。

 

 

あるいは「答えが出ても取るに足らない、自分たちの人生には関係のない答えだから、すぐに忘れ去られて、けれどまた思い出してテーマにする人が表れる」というのが、哲学がいつまでも同じ問いを問うている理由かもしれない。哲学的な問いとは根本的すぎるから、たとえ答えがでても自分たちの世界はなんら変わらないのだ。たとえ哲学的な答えが出たとしても、それで自分の明日からの生活にはなんの影響もないのだ。

 

 

たとえば「どう生きるか」という哲学的な問に対する答えが自分の中で発見されたとして、明日からの自分の何が変わるというのだろう。結局は「よく生きる」という他なく、「そんなのは今までだってわかっていたことだろう」ということになる。

 

 

当たり前の答えをずっと疑問に思って考えていたことになって、「だから何?」と自分にツッコミを入れて終わりになる。あるいは哲学的な答えを出したからと言って、それを他人に話してしまえば同じように「だから何?」とツッコまれて終わりになってしまう。

 

 

この本の中で物理学者の先生も言っていたけれど、根本がわかったからといって自分たちの生活には何の関わりもないのだ。科学的なテーマで喩えると、「素粒子がスーパーストリングからできているかどうか」を知らなくても生活には何の影響もないのと一緒。「地球が根源的には原子からできているのかクォークでできているのか」を知らなくても生活には何の影響もないのと一緒。そんなことを考えたから、答えがわかったからといって、明日食べるご飯が保証されるわけではない。財布の中身が増えるわけではない。

 

 

ただ、哲学者の先生も言ってるとおり、根本が崩れるだけなのだ。それが大きいと言えば大きいし、小さいと言えば小さい。根本が崩れることを面白いと思うか思わないか。自分たちの生活に関係しそうで関係しないギリギリであやふやな世界観に興味を持てるかどうか。そこが哲学に興味を持てるかどうかの違いなのだ。この本でいうところの科学哲学の先生と物理学の先生の立場の違いなのだ。

 

 

自分(私)に関係する話題で言うと、自由意志と犯罪の話が特に面白かった。深淵な問いが、直接自分の生活につながると、これほど有意義な読書体験もないと感じる。自分の身の回りの生活一つ一つから見えない糸が出ていて、それが遠くで1つになっている。その糸を伝って、とおくから有意義という名の実りある読書体験が迫ってきた感じだ。

 

 

「犯罪とは何か」と言ったら「構成要件に該当する有責・違法な行為」だとは思うんだけれど、自由意志の問題は、この「有責性」というところに関係する。自由意志に関する問題の転びようによっては、どうしても有責性の壁を超えられないことになる。いかなる行為も有責性がないことになってしまう。

 

 

というのも、有責性とは責任があるということで、それは「人間には自由意志がある」という前提に立っているからだ。自由意志があるから責任がある。「自分でしようと思った」から、その行為には責任が伴うのだ。

 

 

14歳未満の行為は罰せられない。責任がないからだ。心神喪失者に行為は罰せられない。責任がないからだ。同じように、ピストルを頭にあてがわれて「そいつを殴れ」と強く強要されて人を殴らなければならない状況におちいった場合、その人を殴ったとしても殴った人を罰することはできないだろう。この場合、殴った人に自由意志があったとは言えない。自分の自由意志で「殴ろう」と思って殴ったのではなく、外部の自分ではどうしようもない力で殴らざるを得ない状況になったからだ。

 

 

人間に自由意志は果たして存在するのだろうか。もしも自由意志がなく、人間が行おうとしている行為のすべてが自分の意志の外側からの影響によるものだとしたら、犯罪なんて成立しないものになる。警察も犯人に対して「お前がやったんだろ!」なんて言えなくなる。だってその行為は、自分ではどうしようもない行為だからだ。

 

 

言うなれば、勝手に体が動いたのだ。自分の意志とは関係なく、オートで体が作動したのだ。犯罪を繰り返すのだって、脳内の快楽物質であるドーパミンが分泌されたからだ。そのドーパミンの分泌を、自分でコントロールなどできないだろう。たとえドーパミンが人よりも大量に分泌されたからといって、果たしてそれはその人の責任なのだろうか。たまたまドーパミンが人よりも大量に分泌される体質に生まれたからといって、その人は犯罪者として罰せられるほどその行為に責任を持たなければならないのだろうか。

 

 

犯罪行為にしろ何にしろ、行為を命令するのは、行為の指示を出すのは脳内の信号である。その脳内の信号は、果たして自分で出しているのだろうか。普通に考えれば、自分の意志が信号を出しているようにも思える。というか、それが伝統的な考えだし、法律の有責性を犯罪の要件に備えた考えだろう。自分の「相手を殴ろう」という意志が信号を出し、相手を殴るなり蹴るなり掴むなりしたのだ。

 

 

けれどその信号を出すところは誰にもわからない。というのも、脳内をいくらかっさばいたところで「意志」なんてのは出てこないからだ。意識の正体だって、心の正体だって誰にもわからない。「おそらく脳みその中にあるんじゃないか」という予想はついても、いくらくまなく探したところで見つからないのだ。

 

 

自由意志が行為の信号を出すところなんて誰も見ていない。もしかしたら、行為が自由意志を発動している可能性だってある。ある行為をしたから、自分はそれを自由意志で選択したかのように思えてしまう。「自由意志が行為を選択した」「相手を殴ろうと思ったから殴った」「ペンを拾おうとして拾った」というのは思い込みで、実は逆かもしれないのだ。「行為が自由意志という錯覚をつくった」「殴る行為の発動によって『自分は殴ろうとしたのだ』と思うようになった」「ペンを拾ったから、『最初から自分はペンを拾おうとしていたのだ』と思い込むようになった」のが正解なのかもしれない。

 

 

けれどこれだって、本書の中で物理学者の先生が言っているように、「だからどうしたのだ」ということに帰結してしまう。問いが根本的すぎるのだ。問いが根本的すぎて、日常の範囲を越えてしまっているのだ。そんなことを問うたからといって意味はない。現実的な問題をどうにかするにはあまりにも未知の領域に迫りすぎている。

 

 

結局は、現実的な範囲で我々は判断をするしかない。日常の手の届く範囲で物事を判断していくしかない。たとえ信号が先だろうと行為が先だろうと、見えないものやわからないものを問うていても仕方がない。普通に考えれば、殴ろうとして殴ったのだし、ペンを拾おうと思ったから拾ったのだ。自由意志が行為を選択したのだ。常識の範囲で、いつもの風景が変わらない程度に考えて生きていくのが、生き方としていいのだろう。

 

 

たしかに、たしかに物理学者の先生の言うことはもっともなのだ。地球の反対側のブラジルに生息する蝶の羽ばたきを気にして日本で生きていても仕方がない。けどただ、そこが気になるし、面白いのだ。

 

 

この本はまだ読んでいる途中なのだけれど、物理学者の先生がここまでヒール役をかっているのはただの演出なのだろうか。善人どうしの闘いだと見世物としての魅力に欠けるため、わざと悪役を演じているのだろうか。それとも編集側がそのように編集したのだろうか。悪役のいないアニメは視聴されない。ヒール役のいないプロレスはつまらない。「どちらかをそういう役にしよう」ということで、わざと口悪く設定したのだろうか。哲学でも科学でもなんでもないところが気になる。

 

 


 

 

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