セネカの「摂理について」を読んで、子育てについて考えた

2020.03.20 (金)

まず摂理とは、「すべては神の配慮によって起こっている」というキリスト教の概念のことである。僕たち多神教民族あるいは無神論者には分かりづらいのかもしれないが、森羅万象が神によって決められたものだという。「神も意思」とも言える。

 

 

で、この摂理という言葉の意味を知って、こんな疑問が出てこないだろうか。「世に摂理があるのなら、どうして悪があるのか」というものだ。セネカをはじめ、キリスト教信者は神様の存在を信じている。神様は絶対だ。すべてを見通している。すべてを予測している。すべてを知っている、完璧な存在である。

 

 

そんな神様がいるのに、どうして世の中に悪が存在するのだろう。どうして世の中に犯罪人がいるのだろう。どうして不幸が存在するのだろう。

 

 

だってそうじゃないか。神様は完璧なのだ。だったら悪などいない完璧な世界を作って欲しいものだ。不幸のない、万人に幸福のみが訪れるような世の中にして欲しいものだ。神様のその完璧な頭脳でもって、計画性をもって、クリエイティビティを発揮して、あらかじめ例外なく万人が幸福に行きつくようなこの世にしてほしい。

 

 

どうしてわざわざ交通事故で子どもを無くしてしまう父親を作るのだろう。どうして子育てで毎日苦労する運命を母親に課すのだろう。どうして仕事に出れば周りには嫌な人間ばかりがいるのだろう。もしもこれらが運命の組み合わせなら、あらかじめこの運命を操作して、嫌な思いや悲しい思いなどしないように運命を組み合わせてほしい。

 

 

そんなのができないのなら、本当は神様なんていないんじゃないの? そんなあらかじめのパズル操作ができないのなら、神様は全能じゃないんじゃないの? 人間を意味なく不幸にしてしまうのなら、神様を信じること自体が意味ないんじゃないの? といことである。

 

 

これらの問いに対してセネカは断言する。

「神は善き者を甘やかしたりしない。試練にかけ、鞏固にする」

と。

 

 

つまり神様は、僕たちにトレーニングを課しているというのだ。筋トレを思い出してほしい。筋トレを「つらい」と思わない人はいない。確かに「オレは筋トレを『つらい』と思ったことなんてないよ」なんて言うストイック野郎はいるかもしれないが、そんな人だって、「筋トレをすれば筋肉がつく」ことがわかっているから、筋トレを「つらい」と思わないだけだ。

 

 

「つらい筋トレの後には、筋肉がついてマッチョでモテモテな体になれる」とわかっているから、つらい筋トレに耐えられるのだ。食べたい糖質をこらえて、遊びたい時間を我慢して、言い訳をしたい言葉をぐっと飲み込んで、筋トレをするのだ。

 

 

もしも筋トレの後に何も得るものが無いのなら、誰がわざわざ好き好んで筋肉を痛めつけるだろう。誰がわざわざ好き好んで筋肉の悲鳴に耐えたりするだろう。つらい経験の後にこそ、そのつらさに負けないだけの強靭な肉体や精神が身につくものなのだ。

 

 

これと同じで、神様は不幸という試練を与えて、僕たち人間を鍛えているのだ。

 

 

セネカはこの神様の試練を、父親の愛にたとえる。

 

 

「父の愛が母とどれほど違っているか、君もよく分かっているだろう。父は子供に早起きと勉学を命じ、休日にもゆっくりすることを許さない。彼らから汗を、時には涙をあふれさせる。

 

母は、懐に抱き、日陰に留め置きたがる。決してつらくないよう、決して泣かないよう、決して苦労しないよう願う。

 

善き者たちに対し、神は父の心を抱く。彼らを雄々しく愛して、こう言う『彼らが真の力を発揮できるように、苦痛と損害で苦しめ、乱してやろう』。

 

無為を通して肥育されたおのは弛緩しており、苦労はおろか、己の動作と自身の重みで衰弱する。障碍を知らぬ幸福は、どんな打撃にも耐えられない。だが、絶えず逆境と格闘した者には、受けた不正で厚い皮が育ち、いかなる悪にも屈しない」

 

 

セネカは「怒りについて」の中でも言っているのだが、親は子どもに対して積極的に教育するべきだと言っている。「摂理について」の中でも、この世の不幸やつらい経験を、父親の子どもへの愛にたとえているように、父親とは子どもに対して試練を与えるものという考えだ。

 

 

決して「かわいい、かわいい」とだけ言うのではなく、決して自由にさせるのではなく、決して何でも買ってやるのではなく。子どもを軟弱なままで良しとする父親であってはならない。迫る刃を跳ね返すだけの精神力や肉体を養うために、悪の誘惑や犯罪者に対して屈しない強靭さを身につけるために、乗り越えるだけのつらさや不幸を課すのが、父親としての姿だとセネカは言っている。

 

 

現代社会において、母親も父親も、世の中の親は皆んな悩んでいる。決して子どもが可愛くないわけではない。目に入れても何とも思わないほどに可愛くてしょうがない。なのに、我慢がしきれなくなって怒鳴ったり、放おっておいたり、優先順位を下げてしまうことがある。そして「また怒鳴ってしまった」「またつらく接してしまった」と自分を責めるのだ。

 

 

そんなときは、セネカの言葉を思い出してほしい。子どもがつらさを感じたり、子どもに不幸が降り掛かったり。それは試練なのだ。神様だっておんなじことをやっている。子どもはそんな試練を乗り越えてこそ、成長していく。経験や訓練があるから、それを乗り越えるだけの体力や精神力が身につくのだ。

 

 

 

 

 


 

 

 

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