非行の責任は、環境や社会にもあるのではないか

2020.05.19 (火)

「非行少年が起こしてしまった事件や罪は一概に彼らだけが悪いとは言えず、彼らを取り巻く環境や社会にも責任の一端があると感じました」

 

 

という意見を先日もらったのだけれど、その考えは正しい。僕たちは何事も、特に悪いことがあると、一人に責任を押し付けがちだ。社会の一端が個人であるのに、社会を忘れて個人に罪をぶつけがちである。

 

 

実際、日本の司法制度は個人に罪をぶつけるように出来ていて、いくら社会に責任があるように思えても、裁かれるのは実際に行動を起こした個人となっている。オレオレ詐欺の集団と同じで、詐欺集団はなかなか処罰されないのに、末端の構成員ばかりが捕まって損をするようなものである。

 

 

確かに社会に罪を着せるのが難しいのはわかる。社会に罪を着せたところで何も進まないし、何も変わらないだろう。どこかの誰かが起こした殺人事件を「社会のせいだ」と言ったところで、その声はただ響くだけである。実際にあまりに関係が薄い人もいるだろうし、そんな人は「この殺人事件は自分にも関係がある」なんて思えない。東京で起きた殺人事件は、地方の田舎では「他人が起こした、自分には何の関係もない事件」という印象である。

 

 

けれど忘れてはならないのは、関係が薄くても、皆んなが社会という絆で繋がっているということだろう。確かに個人的な繋がりはないのかもしれない。けれど、その間になにか一つを入れてしまえば、途端に多くのものが繋がってしまうものだ。

 

 

東京と仙台は繋がっていないが、本州という枠組みで見れば繋がっているように。猫とバンダは別の生き物だが、哺乳類という枠組みで見れば同じであるように。ユニクロの洋服とアップルのアイフォーンに、シンプルをコンセプトにした商品という共通点があるように。

 

 

一見別々のものを同じだと見たり、離れ離れにあるものの間に一本のつながりを見たり、姿かたちが違うものどうしの間に共通点を見つけたり。そんな別々の2つのものをつなぐ能力が、発想であり閃きであり、これを人間関係に応用すると、「相手の身になって考える」ということがしやすくなる。自分とは別の生き物とも思えるような、考え方も価値観も違うものに対して、思いやりを持って接しやすくなる。

 

 

非行を防ぐには寛容さが必要であって、これは「確固とした自分を保ちながらも、相手の価値観も認める」という態度である。完全に相手の意見にのまれてしまうのではなく、相手と違う意見を持っている自分を感じつつも、相手に譲渡する姿勢である。

 

 

近代の思想家ヴォルテールの言葉に「あなたの意見には反対だが、それを言うあなたの権利は死んでも守る」ようなものがあるが、まさにこの言葉が寛容の本質と言えるのではないか。「相手の考えに反対だ。相手とは違う立場にいる自分を感じる。けれど、相手の声にも耳を傾けよう。相手の立場も認めよう」というものである。

 

 

寛容さを身につけるには、卑近なものに囚われないことが必要である。一例をあげると、あるべき論だ。「日本国民はこうあるべきだ」「政治家はこうあるべきだ」「男性はこうあるべきだ」「女性はこうあるべきだ」「社会人はこうあるべきだ」「学生はこうあるべきだ」という一般論。

 

 

「自分は一般論に染まらない」なんて思っていても、気づかないうちに一般論を相手に強く要求する、あるべき論者になっていることが往々にしてある。「あんな上司にはならない」なんて言っていても、いざ部下を持つと「組織とはこうあるべきだ」というあるべき論を振りかざすようになる。「自分は子どもを怒る親にはならない」なんて言っていても、いざ子どもを持つと「家族とはこうあるべきだ」というあるべき論を振りかざすようになる。

 

 

常に「自分はあるべき論を言っているんじゃないか」と疑うことが必要である。

 

 

あるべき論とは、世の中を型で区切って見てしまうことだ。確かに自分軸を持つことは大事だが、相手も自分軸を持っているのである。自分が独自の考えを持っているように、相手も独自の考えを持っているのである。

 

 

卑近に囚われていると、自分のあるべき論から離れられなくなる。世の中の全てを自分のあるべき論で区切らなければ気がすまなくなる。最低限、自分の部下や自分の子どもなど、影響を及ぼせる範囲に関しては、きっちりとあるべき論で片付けたくなる。

 

 

抽象的に見ることが必要なのだ。自分軸も、状況や環境に合わせて柔軟性を持たせなければならない。自分と相手では、状況や環境も違うのだ。当然、軸もズレてくる。この軸のズレ、価値観のズレ、考えのズレが見えなくなってしまうから、寛容さを失ってしまう。

 

 

自分の区切りを水で薄めてぼやかすように、ハッキリとした枠をふやかしてしまうように、世間と自分の境界をなくしてしまうように。「自分が自分が」ではなく、自分も所詮はその他一般の中の一つであることを認識して世の中を見ること。それが抽象化である。

 

 

子どもが非行に走るのであれば、親が寛容さを、身を持って示さねばならない。若い世代が非行に走るのであれば、上の世代の寛容さが伝わらなかったのであろう。イライラと同じで、寛容さだって相手に伝わるものだ。新型コロナウィルスではないが、どんどん伝播するものである。

 

 

相手に対する不寛容を改めて、寛容的な社会をつくることが、非行のない社会に繋がるのだ。多様性とかグローバリゼーションなんて言われているけれど、それと相性はいいと思う。多様性は、常に想定外のところから表れる。「多様性は必要だと思うけど、それは人間として間違っているだろう」という言葉は、多様性を理解していないように思える。自分の想定外から来るから多様性。それは一見、「人間として間違っている」ような形態をとっているものだ。

 

 

そんな「人間として間違っている」価値観を目の当たりにした場合、それをどう解釈するのか。自分のあるべき論を振りかざすのか、それとも自分を薄めて見るように努力するのか。

 

 

非行は個人やその家族の責任として片付けるのは簡単だが、抽象的に見れば、社会全体の責任として十分に見られるものである。個人や過家族に責任を押し付けるのは、先程も言ったようにあるべき論で、それはタテマエ主義とも言える。本当は自分のホンネを知らないのに、あるべき論が自分のホンネだと思っているのだ。

 

 

自分の「好き」や「興味」や「ホンネ」を探すことが、寛容のある社会を作るのかもしれない。倫理の教科書で言えば、アイデンティティーの確率と言われている。何のことはない。古来から言われている当たり前の結論である。

 

 

自分は相手とどのように共通点を持っていて、どこが違うのか。非行のない社会のためにするべきことは、アイデンティティーの確率である。

 

 

 


 

 

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