反省させると犯罪者になります
「反省させると犯罪者になります」という本があるらしい。
自分では読んでいないのだけれど、フェイスブックの投稿で流れてきた。僕がフェイスブックの「読んだ本をレビュー投稿する」というグループに入っているので、この本を読んだグループメンバーがレビューを投稿して、その投稿が流れてきたのだ。
だいたいの内容としては、無理に「ごめんなさい」を言わせても、その人が自発的に反省をしなければ意味がないだろう。そんな表面だけ取り繕ったようなことしていては、「ごめんなさいって言えばいいのか」のような上辺だけ反省して、実際には悪いことを繰り返すようになる‥のような内容らしい。
ちなみに僕はこの本を読んでいない。もちろん、「非行診断師」という肩書の僕と守備範囲は同じようなものだし、読んだほうが良いのだろうけれど、あんまり時間もない。この本を読んでいる時間が今はない。今は古典に凝っているので、そっちの方に時間を割きたい。僕が本を読むペースは、一年におよそ100冊程度。残りの寿命は50年とすると、残りの人生で読める本は5000冊程度、ということになる。
これはあまりにも少ない。読む本を絞る必要がある。アレもコレも‥と手を出せる状況ではなくなってきた。歴代の哲学者、イギリスや日本の近代の文豪たち。彼らの作品をできるだけ読もうと思ったら、時間がいくらあっても足りない。
しかも、一回読んだだけでは内容がわからなかったりするので、2回や3回と読む必要がある本もある。それと、後になって急に再読したくなる本もある。おそらく読書というのにもタイミングがあって、わかる時とわからない時があったり、刺さるときと刺さらない時があったり、自分の人生とつながる時とつながらない時とがある。一回読んだところで、わかる時や刺さる時やつながる時だとは限らない。
それと、本は読んで終わりではない。本を読んで、その気づきを活かす余裕もほしい。人生の最後の最後でとてつもないいい本に出会ったとして、その本の内容を人生に活かせないで終わってしまうのでは、あまりにももったいない。
いい本を読んで、「この本の内容、いいなあ‥」と思ってそのまま死んでしまったのでは、僕がその本を読んだ意味はなくなってしまうのではないか。読んだからには社会に還元したい。読んだからには周りの人に本からの影響を伝えたい。その本の内容や本から得た気づきを誰かに話したい。
「本を読んだ後に、その本を活かす余裕もほしい」と考えると、「本はできるだけ早く読んだ方がいい」とも考えてしまう。そうなると、「死」に対するイメージをどう持っているか、とか考えてしまう。
死に向かって突き進むこの人生、残りの寿命をどうまっとうするか。残りの人生をどう生きるか。いざ死に向かって入っていく時、いざ死ぬ時はどうやって死ぬか、そんな、「『死観』をどうもつか」が大事だと思えてくる。
‥話をもとに戻して「反省させると犯罪者になります」だけど、この反省を促すことの罪は、僕も警察官をやっていく中で感じていたことだ。
というのも、大人でさえもまともに反省できる人なんていない。大人でさえ、うまく相手に謝罪できる人なんていない。誰も彼もが、相手に対して謝罪を求めることをするのだけれど、では自分が謝罪をするときはどうなのか。心からの謝罪の言葉を述べられているだろうか。その謝罪は表面的なものではないだろうか。「頭を下げて『すいません』と言えば良いんだろう」くらいに思っているのではないだろうか。
おそらく多くの人が、心の底からではなく、表面的な謝罪にとどまっているのだと思う。車で事故ったときも、歩行中などに他人にぶつかってしまったときも、意図せず他人に不快感を与えてしまったときも、誰も彼もが心の底から「自分の不注意(もしくは勘違い)があなたに不快感を与えてしまいました。申し訳ございませんでした!」なんて思っているのだろうか。そんなことはないだろう。
だれも本当の意味で「反省」などできないのだ。おそらく反省とは、一人の時にできるものなのだ。デカルトの「省察」なんて本があるけれど、あれはデカルトが一人で考え抜いた本だ。他人の目、他人の存在、他人の強要があるとき、当の本人は反省など出来ない。他人を意識する時に反省など出来ないし、他人を意識してしまって、自分の見栄を意識してしまって、悔い改めることなどできないのだ。
ということは、僕たちは他人に対して反省を促すことも出来ないのだと言える。「謝罪しなさい」「反省しなさい」「『ごめんなさい』と言いなさい」という言葉を僕たちは他人に対していいがちだが、その言葉を言う僕たちの存在がある限り、その人は反省などできない、ということになる。
小売店なんて、どこか「お客様は神様」という雰囲気があるので、いまだに小売の店員に対してマウントを取るお客がいる。年配者を中心に、店員に対して知り合いでもないのに敬語を使わない人が多い。店員に対してすぐに「謝れ」とか「失礼だろ」とか「上の人間を呼べ」という客が多いのだ。
そんな、店員に対してマウントをとるような客を見ていると、「本当に謝罪ってマウントの道具でしか無いな」と思う。どうしてこういう人は「謝罪を要求する態度そのものが相手に対して失礼」ということに気づかないのだろう。
つまり僕たちは、相手に反省を促せるような存在ではないのだ。反省を相手にさせるだけの事を僕たちはしていない。「自分は悪いことをしたら謝るよ」なんて口で言う人はいるけれど、実際には上辺の謝罪だけで、心底反省している人なんていない。
反省や謝罪なんてのは、もはやタテマエ主義のフラグのようなものでしかない。自分のホンネに素直にならず、表面だけ取り繕えばオッケーのような人生観。自分を顧みずに他人にマウントをとる視野の狭い自己中。それが「反省させる」ということなのだ。
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