子どもの非行はすべて親の責任ですか?
「そうではない」ですよ。
現実的に、子どもの行動や思考をすべて、「親の影響」とか「親の教育」とできるのかというと、そうでもないじゃないですか。たくさんの人と知り合っているわけです。確かに一歩も家の外に出たことがない、ずっと家の中で暮らしているような子どもであれば、外の世界を見たことがない、家族以外に話をしたことがない、という状況もありえるので、子供の行動や思考がすべて親の影響なのでしょう。
けれど、実際に子どもは家族以外、親以外の人間と接して生きています。一歩でも家の外に出れば、そこはもうワンダーランドです。木々があり、空があって、太陽があって。鳥や、野良犬、野良猫などの動物もいるでしょうし。家族以外の人たちの声もすれば姿も見えます。それをすべて親が制御できるのかというと、そうでもないですよ。
考え方としては、「子どもの全ては親の責任」というのも悪くないのかもしれません。「責任は全て親が取る」「親である自分がなんとかする」「親が面倒を見る」という勢いで接することができれば、子育てに対して能動的、行動的になれるでしょう。
が、子どもを自分の支配下から離せば離すほど、親の影響は小さくなります。父親よりも母親に多いのかと思いますが、自分の支配下に置こうとする傾向がありますよね。それっていうのは、責任感の大きさなのでしょう。「自分の子どもは自分でなんとかしなくてはならない」とか「自分が面倒を見るんだ」と思うから、自分がコントロールできる範囲にとどまらせようとするし、行動なりを把握していたいと思います。手をつないで行動したり、何があったのかを聞こうとしたり。ですが、それだと世界が狭くなってしまうと思うんです。狭い範囲に子どもをとどまらせるような。
結局は、自立できるかどうかだと思うんです。子育てのゴールって。子どもが、親である僕たちから離れて自分で生きていけるようにすることが、僕たち親の役目だと思うんですけど、そうであればなおさら親から離さなくてはならない。親の管理下、コントロール下に置いておくことはできないでしょう。自立させなければならないのですから。
もっと子どもと距離をとりましょう。距離を取る勇気を持つことです。親が子どもに対して何ができるのか、というと、何もできないんだと思うんです。教えることなんてできない。僕たち親が知っていることっていうのは、何十年も昔の知識なわけです。それを、現在進行形で活発に動いている現代、それのさらに未来で真価を発揮しなければならない子どもたちに、何を教えることができるだろうか。何も教えることはできないと思うんです。
「子どもの責任は親が全てだ」という考えだと、なんか自己中っぽくて、子育てが、子どもを親の管理化・コントロール下に置いてするものであることが前提のような響きが合って……。
投げ出しちゃって良いんだと思いますよ。親以外の色々な人から影響を受ければ受けるほど、子どもの世界は広くなるでしょう。広い世界を見れば見るほど、今いる現状がつまらなく見えます。そうなったら、子どもの視線は外に外に、遠くに遠くに、と親から離れるでしょうし。そうすれば、「全ては親の責任だ」なんていってられないですよね。だって、子どもの意識は、親の元、家族の元にはもうすでに無いんですから。
で、子どもの世界を広くするには、親である僕ら自身も、外に外に、遠くに遠くに、と視線を向けなければならないはずです。現状に満足したり、昔の慣習を意味もなく繰り返したり、変わることに抵抗を感じたり、理解できないものを受け入れられなかったり。
視線を外に、遠くに、と向けていけば、生活や考えを変えなければならないことは出てくるはずで、それっていうのは、「理解できない」という形をとって表れるはずです。「それだけは譲れない」とか「人としておかしいんじゃない?」とか。そんな、理解できないくらい新しいものが表れた時に、それを受け入れられるかどうかが、自分が変われるためのターニングポイントになります。
子育てをしていると、よく「無駄な時間の使い方」よりも「いかに時間を有効に使うか」が大事に思えるし、「ゲームして過ごす一日」よりも「勉強して過ごす一日」の方が、目指すべきことのように思えます。が、おそらくそれすらも、必要のないものなのでしょう。
「全て親の責任だ」と考えていると、子どもを自分のコントロール下に置こうとします。責任放棄ではありませんが、放り出してみましょう。その方が子どものためです。しかも、子どもを放り出すと、「良い子育てをしなければ……」とか「子どものために親である自分が……」というプレッシャーからも開放されます。ジレンマではあります。子どものためを思えば思うほど離れなければならない、みたいな。けどそんなジレンマを克服することが、あるべき僕たち先の世代の姿なのかなと思います。
子どもの非行が全て親の責任かというと、そうではありません。社会的に原因があるから、どこかの家庭に具体的な症状が表れるんです。子どもは社会から影響を受けるし、社会に非行に走らせる原因があるから、一家庭の子どもに表れるんです。
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ようやくできました。「妄想スナイパー理論」です。タイトルは「インパクトがある方が人目につくかな」と思って、こんなタイトルにしていますが、中身は「犯罪と非行をなくして、思いやりを育む方法」になります。
思いやりってけっこう、掴みどころのないものだと思うんですよ。昔から「思いやりを持ちなさい」とか「思いやりが大事です」なんて周りから言われることは多いと思いますが、「それって何なの?」と聞かれた場合や、「それってどういうこと?」と深く知ろうとした場合、それと「どうやって持つことができるの?」となった場合に、うまく答えられないと思うんです。
そこで、一つの具体案として、「スナイパーのようなものだと」というのを示したいと思います。スナイパーとは、遠くから銃で相手を狙う、狙撃です。思いやりとは、スナイパーのようなものなのです。もちろん、思いやりっていうのは頭の中のことなので、実際に銃なり狙撃なりはしませんが、遠くから狙うすスナイパーと思いやりっていうのは、似ています。
スナイパーと思いやりはどうして似ているのか。スナイパーと思いやりの間の共通点とは何なのか。スナイパーと思いやが似ているのだとしたら、思いやりを育むにはどうすればいいのか。そんなことを、この小冊子には載せてみました。35,222文字です。目次はこちらで公開しています。
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