イライラを抑える思考方法
言葉とは、差異のシステムである。例えば今、目の前にテーブルがあって、その上に本と、スマホと、パソコンが置かれている。この白色の紙でできた物が「本」であり、黒い手のひらサイズの物がスマホであり、グレーのアルミ製の物がパソコンである。
白色の紙でできた物を「本」と呼び、黒色手のひらサイズの物を「スマホ」と呼び、グレーのアルミ製の物を「パソコン」と呼んでいる。言葉とは、ラベルのようなものだと考えていないだろうか。白色の紙でできた物に貼られた「本」というラベル、黒色手のひらサイズの物に貼られた「スマホ」というラベル、グレーのアルミ製の物に貼られた「パソコン」というラベル。そんなものだと思っていないだろうか。物の名前だけではない、徒歩で早く移動することを「走る」と呼び、人に言葉を投げかけることを「話す」と呼び、目で文字を追うことを「読む」と呼ぶ。
初めに、「もの」があって、それに対してつけられたのが言葉だと思っていないだろうか。僕たちが存在するしないに関わらず、テーブルの上には本とスマホとパソコンがあって、たまたまそれらを認識できる僕が「ここ」にいるから、それらを「本」とか「スマホ」とか「パソコン」と呼んでいる、などと思っていないだろうか。それは本当だろうか。たとえば、テーブルの上にある本とスマホとパソコン。これらは、僕がここからいなくなっても、ここに存在するのだろうか。僕や、人間という種が日本から突然いなくなっても、このテーブルの上に本とスマホとパソコンは存在するのだろうか。
「あるに決まっているじゃないか」と思ったあなた。その考えはもしかしたら、古いのかもしれない。というのも、近代以降、「言葉とは差異のシステムである」という考えが広がったからだ。
よく「どうして気にならないの!?」と、家族や同僚に対して怒ることはないだろうか。自分が気にしていることが、相手には気にならない。食器をいつもと違う場所に入れる。床が汚れていても掃除をしない。部屋を散らかしておく。それらは、相手には見えていないのだ。食器を違う場所にいれること、床が汚れていること、部屋が散らかっていること。それらは事実なようで、事実ではない。事実であると同時に、事実ではないのだ。思い込みでしかない。あなたが「散らかっている」と思うから散らかっているし、「汚れている」と思うから汚れている。
「だって実際に散らかっているし、汚れているだろう」と思うかもしれない。が、その物理的に見えることすら、思い込みなのだ。
例えば、僕たち日本人はウサギをウサギとしか言わないが、アメリカでは日本語のウサギに対する言葉が二種類あり、ラビットとヘアーだ。ラビットは、イメージとしては、白色で、家庭で飼われているウサギ。ヘアーは、茶色で、足が長い野うさぎである。日本人である僕たちには、ラビットだろうとヘアーだろうと、そんな違いは大した違いには思えないかもしれない。白色だろうと茶色だろうと。足が短かろうと長かろうと、「どっちも要はウサギでしょ」と思うかもしれない。ところが、アメリカ人にとっては、そこはどっちでもよくないものなのだ。どっちでもよくない認識なのだ。
そこは、携帯電話とスマホを区別できる人もいるし、区別できない人もいるようなものだ。ボクは今アラフォーで、携帯電話とスマホは別のものだと思っている。が、おそらく80才や90才の年配の人にとっては、スマホも携帯電話(いわゆるガラケー)も一緒に思えるだろう。違いを区別できないのだ。だから、「どっちも携帯電話でしょ?」なのだ。ゆえに「スマホ」という言葉は、彼らには存在しない。
「言葉がるある」ということは、「それらを区別できる」ということであり、区別できるということではじめて、そららが存在しているのだ。僕たち日本人にとっては、ラビットもヘアーも存在しない。存在しているのはウサギだけである。80才や90才の人にとっては、スマホは存在しない。存在しているのは携帯電話だけである。それは、「言葉がある」ということであり、「区別できる」ということであり、「認識できる」ということであり、「存在している」ということなのだ。
犯罪と非行を防ぐには、イライラせずに、優しい性格になることが必要である。イライラするのは、自己中だからである。実際にはフラットなのに、「自分の場合は特別だ」と考えるから、イライラを許してしまうのである。「自分の身に起こったことは、怒っても仕方のないことである」という、出来事への特別視が、イライラを誘発するのである。
本来であれば、何事もフラットなのだ。特別なことは、何一つ無い。自分も含めて身の回り、僕たちがいるこの世界、何一つ「これ」というものはないのが、本当の世界なのだろう。おそらく「混沌」という言葉が一番合うのだろうと思う。この世界を表すのは、混沌なのだ。グツグツと煮えたぎる鍋のように、絶えず形が変化する煙のように、ゆらぎ続けて一定でない炎のように。液体か個体かわからない。気体かどうかすらもわからない状態が、絶えず煙や炎のようにゆらぎ変化し続けているのが、この世界の本当の姿なのだ。
ゆえに、切れ目は一切ない。「これはこうした方が良い」「あの人はこうするべきだ」「常識的にはこうである」など、すべて一切の線は本来、無いものなのだ。
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ようやくできました。「妄想スナイパー理論」です。タイトルは「インパクトがある方が人目につくかな」と思って、こんなタイトルにしていますが、中身は「犯罪と非行をなくして、思いやりを育む方法」になります。
思いやりってけっこう、掴みどころのないものだと思うんですよ。昔から「思いやりを持ちなさい」とか「思いやりが大事です」なんて周りから言われることは多いと思いますが、「それって何なの?」と聞かれた場合や、「それってどういうこと?」と深く知ろうとした場合、それと「どうやって持つことができるの?」となった場合に、うまく答えられないと思うんです。
そこで、一つの具体案として、「スナイパーのようなものだと」というのを示したいと思います。スナイパーとは、遠くから銃で相手を狙う、狙撃です。思いやりとは、スナイパーのようなものなのです。もちろん、思いやりっていうのは頭の中のことなので、実際に銃なり狙撃なりはしませんが、遠くから狙うすスナイパーと思いやりっていうのは、似ています。
スナイパーと思いやりはどうして似ているのか。スナイパーと思いやりの間の共通点とは何なのか。スナイパーと思いやが似ているのだとしたら、思いやりを育むにはどうすればいいのか。そんなことを、この小冊子には載せてみました。35,222文字です。目次はこちらで公開しています。
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