除夜の鐘に対するクレームと、大麻に対する「ダメ、ぜったい」の共通点〜大麻ビジネス最前線
除夜の鐘に対するクレームが、世の中にはあるという。年越しの風物詩で、なっていても迷惑だと思わないどころか、風情を感じて文化の香りがするものだと思うが、これにも文句を言う人がいるという。この「除夜の鐘に対するクレーム」は、ヤフーニュースで読んだもので、同時じ「除夜の鐘をうるさく思うかどうか」というアンケートも記載されていたが、そのアンケート結果は、「迷惑だとは思わない」という人が98パーセントもあった。ということは、除夜の鐘をうるさく思うのは一部の人だけ、ということであろう。大部分、というかほとんどの人は、除夜の鐘に対してうるさくは思っていない、ということだ。これは、一部の声をあたかも全体であるかのように取り上げるメディアもどうかと思うし、一部の人の声を広くとどけることができるようになった、という現代の特徴でもあるだろうし、「一部の人の声も取り上げなきゃ」という意識のあらわれでもあるだろう。たしかに声を取り上げることは大事であるが、「それを全体だと思ってもいけない」ということでもある。
まあでも、自分が考えていること、自分が思うことを、広く社会に向けて発信しやすくなったことは間違いないだろう。クレームーを言いやすくなった世の中であることには間違いない。このクレームというのを、警察官はよく扱う。警察官自体に対するクレームでもあるし、第三者同士のクレームでもある。よくあるのは、顧客の店側に対するクレームで、これが110版通報で入るので、警察官が現場に行って、お互いをなだめるのだ。
クレームを言う人というのは、盲目になっている。自分の意見が正しいと思っているからクレームをいうのであるが、クレームを言う時点で、自分がごく一部になっていることをわかっていない。「クレームをいう」行為自体が滅多にあることではなく、こんなにも世の中で商業活動が行われている中でのほんの一部なのだ。クレームを言うコト自体がレアなのであって、それなのに自分の考えが、世の中の大方の考えだ、かのように言っている。
例えば、よくある店側に対する顧客のクレームの一つに、「態度が悪い」がある。言葉遣いが気に入らなかったり、態度にかちんと来たり、であるが、このクレームも、結局はいうだけ無駄なのである。クレームを言うのは良いが、結局は主張が通ることはない。「そんな態度をしていては店が持たたい」とか「人間的にどうか」という内容をいうのであれが、最終的には「お前(クレームを言う人)には関係ないだろう」という話になるからだ。
クレーマーは自分が正しいと思っていて、自分の意見が客観的だと思っている。ここに犯罪と非行の特徴が見て取れていて、犯罪者や非行少年と同じく、クレーマーというのは視野が狭いのだ。本来であれば、決して自分の考えを全面に押し出すべき場面ではないのだが、それが見えなくなっているのだ。この自分の意見の方が、主流で客観的だと拡大解釈することが、犯罪や非行の根本にもあるように思える。世の中で発生するケンカ、トラブル、小競り合い、言い争い、果ては戦争まで、全ての根本にあるのが、この「自分のほうが正しい」という考えだ。
不寛容になっている社会で有効なのは、「間違っているのは自分かもしれない」という自分を疑う態度だろう。というのも、自分を否定しなければ、視野は広くならないからだ。自分が正しいと思っていていは、今見えている世界からそれ以上に視野が広がることはない。「自分には見えていない世界がある」と、今見えている世界を疑うから、自分が見えている視野の向こう側を見ようとするのだ。
決まったものなどない。何が良くて何が悪いかなど、流動的でしか無いのだ。何が良くて何が悪いか、特に刑法に書かれている窃盗や殺人などは、あたかも人間が生まれる前から存在している価値観のように思えるが、それらすらも人間が作ったものなので、ある時点から「悪いことにしましょう」と作られた、人為的なものなのだ。決して人類普遍の価値観ではない。まあ、犯罪を犯すことを奨励するつもりはないが、ついつい当たり前だと思われることや、人間として当然しなければならないもの、などを疑うことが、寛容さなのだ。「それが当然だと思っている自分の方が、間違っているのではないか」「それを上司kだと思っている自分のほうが、見えていない方なのではないか」と、自分を否定すること。それこそが、暴力、犯罪、非行をなくし、世の中に優しさや寛容さを広める第一歩なのだ。
「ダメ、ぜったい」というコピーで知られる大麻に対する所持であるが、日本の外に目を向けると、意外なほど寛容的になっている。アメリカでは合法化する州が増えているし、カナダや一部のヨーロッパの国でも、大麻に対して解禁されている。日本でも、実は「本当に体に悪いのかどうかわからない」状態で、「ダメ、ぜったい」と言っている人がほとんどなのだろう。大麻についても、ただただ機会的に「ダメだ」と線を引くのではなく、一度一歩引いて遠くから眺めてみるのもいいのかもしれない。
まあでも、日本で大麻を所持する人のほとんどは、「本当に体に悪いのかどうかわからない」ということを、自分が所持する理由を正当化するために利用しているのだろうが。
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ようやくできました。「妄想スナイパー理論」です。タイトルは「インパクトがある方が人目につくかな」と思って、こんなタイトルにしていますが、中身は「犯罪と非行をなくして、思いやりを育む方法」になります。
思いやりってけっこう、掴みどころのないものだと思うんですよ。昔から「思いやりを持ちなさい」とか「思いやりが大事です」なんて周りから言われることは多いと思いますが、「それって何なの?」と聞かれた場合や、「それってどういうこと?」と深く知ろうとした場合、それと「どうやって持つことができるの?」となった場合に、うまく答えられないと思うんです。
そこで、一つの具体案として、「スナイパーのようなものだと」というのを示したいと思います。スナイパーとは、遠くから銃で相手を狙う、狙撃です。思いやりとは、スナイパーのようなものなのです。もちろん、思いやりっていうのは頭の中のことなので、実際に銃なり狙撃なりはしませんが、遠くから狙うすスナイパーと思いやりっていうのは、似ています。
スナイパーと思いやりはどうして似ているのか。スナイパーと思いやりの間の共通点とは何なのか。スナイパーと思いやが似ているのだとしたら、思いやりを育むにはどうすればいいのか。そんなことを、この小冊子には載せてみました。35,222文字です。目次はこちらで公開しています。
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